コピペです。


これらの記事は、元々韓国の雑誌「ハンギョレ21」誌の記者が自ら取材し、韓国・ハンギョレ21誌の決定で掲載したものです.当"風窓"webに翻訳・掲載しているものは2001年12月17日現在では以下の通りです.

2001年9月374号
[報道 その後] 大統領も “ごめんなさい ベトナム” 2001年4月356号
[特集] ‘ごめんなさい ベトナム’ ファッション登場?
2000年12月339号
[特集] ‘ごめんなさい ベトナム’ 世界へ! 2000年6月312号
勲章を捨てた父
99年12月287号
ベトナムの熱い感動! 99年11月282号
兄さんの重荷を減らしてください
韓国とベトナムの読者の手紙
99年10月278号
報道 その後‘ベトナムの怨みの霊を記憶しなさい’ 99年5月256号
ああ, 震撼の韓国軍!
   
 
検索用語を入力 検索フォームを送信
  Web www.altasia.org



99年5月256号ハンギョレ21

ああ, 震撼の韓国軍!

ベトナム戦 24周年にして見た、私たちの恥部, ベトナム戦犯調査委のおぞましい記録

(写真/ベトナム戦でベトコンの陣地を捜索・破壊するという作戦上の名分が大量虐殺を正当化した.)

戦争はこんな所でも起きたのだろうか. 丸いひさしの尾根、そして緑の野原, その上に白く降り注ぐ陽差し, 椰子の樹とマンゴ―とパパイヤ, バナナの樹…. 窓の外に流れる風景には、見える限り熱帯の和やかさだけが広がっている. 太陽が灼けつく裏山には、腰を地につけるように田畑を耕すベトナム女性たちの編み笠だけがちらほらと島のように動いている. 真昼の太陽に熱せられて飴のように曲がってしまいそうな道には、腰をまっすぐに伸ばして自転車を走らせる女学生たちの真っ白いアオザイの裾が、重い風の中を雲のように飛び交う. 果して、わたしたちはあのとき、このような女性たちにまで銃口を向けたのだろうか. 理性はなく、狂気だけが残った人間が行った殺戮の現場, その痛みの肌に触れに来た‘ナムチュティン’(南朝鮮)の心情を知ってか知らずか、バスはセンターラインもないアスファルト道を果てしなく走った.


生き残った老僧の証言


"1969年 10月14日, ベトナム南部パンラン地域で、韓国軍人らがリンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって銃器を振り回す事件が発生した. サイゴンの報告によれば、韓国軍一名がリンソン寺でベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されると、これに激怒, 同僚を誘って銃器を乱射したことが明らかになった. は、この事件で71歳の住持僧, 69歳の老僧, 41歳の女僧, 15歳の修行僧 等 4人が死亡した事実をベトナム政府が公式に認めたと報道した.(紙 1969. 10. 24)"




(写真/当時 リンソン寺で唯一生き残ったプフ僧侶.)




筆者は2年前, ベトナム政治局から出された‘戦争犯罪調査報告から- 南ベトナムでの南朝鮮軍隊の罪悪’という資料の一部をようやく手に入れることができた. 私はこの資料をまだ検証していない、ベトナム側の一方的な報告書, しかし、いつかは解くべき宿題として机の引出しの中にしまってあった. それを、‘父の世代に行なわれた誤ちだけど’ 韓国とベトナム間のお互いが殺し合わねばならなかった‘痛い歴史の決着をつけるための’小さな努力の一環として、ベトナムを訪問した韓国市民団体‘私と私たち(ナ ワ ウリ)’一行に初めてこの資料を公開した. ‘私と私たち’は、昨年にも日本の市民団体が企画したピースボート(Peace Boat)に乗り込み、韓国軍のベトナム民間人虐殺現場を見て回って、証言を収録したことがある. “日本人の助けを借りて韓国人の問題を省みるという事実が切なかった”という彼らは、これからは‘韓国人の力で’ぶつかってみようという意志を結集して、また再び長い旅程に出たのである. 筆者は初めて寄着時から同行することにした.

ベトナム南部海岸に位置したパンランは、観光ガイドブックにも出てこない小さな町だ. 最大の盛り場であることが明らかなバス停留場にはタクシーが1台も見えず, 歩いて探したホテルにも、ありふれた冷蔵庫もなかった. ただ ‘ヌクマム(ベトナムの漁醤)の町’という名声らしく、生臭い塩気が大気をぎっしり埋めているだけだった. 私たち一行は、遠くのリンソン寺を探し出した. しかし、資料中に出ているリンソン寺は戦争中に消えてなくなっていた. 蒸し鍋のような暑さとひどく揺れるバスに苦しめられながら8時間も走ってきたのに、全てが無駄に終るのではないだろうかという焦燥感を感じながらも, 一方ではなぜかはわからないが安堵の溜息が流れ出た.

翌朝, 私たち一行をパンランまで案内したベトナム人学生から急な知らせがきた. 元来、ホーチミンからパンランへと入る町角に立っていたリンソン寺は戦争中に爆破されて, パンランからナチャンへ行く道に同じ名前の寺がまた建てられたということだ. わたしたちはすぐさまそちらへ走った. そして、そこで当時唯一の生存者のプフ(78)僧侶と現場目撃者のウンウェンティ ユエンハン(45)に会うことができた. ここまで来る間、終始筆者を押さえ付けてきた不安が, 認めたくなかった話が目の前に現実となって現れた.


子供も妊婦も容赦なく…



(写真/’忘れたい戦争’. 韓国軍に殺されたベトナム人の数は、公式統計だけでも 4万1450名だ.)


“軍人たちがまず僧侶に向かって銃を射ちました. 続いて、助けてくれと逃げる女性や菩薩様にも銃を射ちました. そして、屍体を皆燃やしました.”ユエンハンの証言だ. 当時やっと15歳になったばかりの彼は恐ろしさで真っ青になり、叫び声もあげられずに息を潜めていたと告白する. リンソン寺には、五人の僧侶が住んでいた. その時、プフ僧侶は住持僧より先に村におりて行き、喪家で読経を行っていた. 証言の大部分はユエンハンを通じてなされ, その寺で唯一の生存者のプフ僧侶は口数が少ない. 当時の話をしながらも、人々はその時の虐殺の主人公の後裔に配慮してくれた. 冷たいお茶を持ってきて, 果物の皮をむいて薦めてくれ, パパイヤを食べて汚れた口をすすぎなさいと、水まで汲んできてくれた時には、涙が溢れ出た.

プフ僧侶が村に帰ってきた時、寺は既に修羅場と化していた. プフ僧侶は火にくべられていた五人の僧侶の死体を近隣の小屋へと移した. 死体奪取に対する不安からあった. このことが伝えられると, パンラン地域全域の学校が休学を決議して, 学生達と仏教徒たちが一斉に蜂起した. “ベトナム政府は良民虐殺を即刻中断しなさい!” “人殺しはベトナムを出て行け”等等、凄まじい叫び声がパンランを巻きこんで, 僧侶たちの死体は12日を過ぎてやっと火葬できた.

“火葬をしても、僧たちを安息させられなかった. 僧たちを祭る寺が消えたからですよ. 僧たちの骨を壷に納めていたのですが、やっと昨年、この寺に安置してあげましたよ.”プフ僧侶がやや低めな声で話を続けた. 韓国軍人たちの銃器乱射事件で廃虚になった寺は、その後また再び爆撃を受けて跡形もなく消えた. そして、昨年、仏教徒の在米ベトナム同胞の援助でまた寺が建てられた. プフ僧侶は30年ぶりに住持僧としてこの寺に帰ってくることができた. 寺の前に当時死んだ僧侶たちの遺骨が納められた三重塔がある. 私たち一行はその前に頭を下げて、僧侶たちの冥福を祈った.

どちらかというと、私達がリンソン寺で聞かなければならなかった話は、今から会う、数多くの証言の中でも最も安らかな話になるかもしれない. 大雄宝殿の席から見下ろすと, 空と海と野原がひと目で見渡せた. どこに目を向けても、限りなく平和なだけの, 限りなく懐かしいだけの風景, しかしその中には、まだどれくらい多くの話が隠されているのだろうか?. ‘私と私たち’一行は、韓国軍の軍事作戦が最も熾烈に展開された中部地方にまた再び旅立ち, 筆者はリンソン寺を振り返りながら、振り払えない重い歩みでホーチミンに帰ってきた.


"女性たちを強姦した後、殺害"


韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる. 前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索, 破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた. 筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが, その一部をここに紹介する.

1965年 12月22日, 韓国軍作戦兵力 2個大隊がビンディンソン、クィニョン市に500余発もの大砲を撃ち込んだ後、“きれいに殺して, きれいに燃やして, きれいに破壊する”というスローガンの下、 捜索掃討作戦を繰広げた. 彼らはこの村で12歳以下の22人の子供, 22人の女性, 3名の妊産婦, 70歳以上 6名の老人を含む, 50余名を超える良民を虐殺した.


"… などは、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました. 彼女の子供は軍靴で踏み潰され、まだ血が流れていたお母さんの胸の上に投げ捨ててありました. 妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり, 子宮が外に出ていました. 韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して, 子供の頭を切り取って地面に放り投げ, あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てました.

彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し, ある子供のからだを持ち上げて、樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せました. そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、くぼみに捨てられたのです…"


パンランで別れて二日ぶりにクィニョン市を調査中の‘私と私たち’一行から電話がきた. “見つけました! 当時調べた、現人民委員会 主席の話です.” 1966年 3月19日と20日の二日間にわたった‘ベトナム中部各地の戦争犯罪調査会議’で韓国軍の罪悪性を毎々に明らかにした話だ. “手にしている、この資料がますます 恐ろしくなりますね. ひょっとすると、わたしたちはこの資料をもっと補充しなければならないかもしれません.

ビンディンソンを中心に

この資料に紹介された4地域だけでなく、

韓国軍の虐殺現場が他にももっとあるというのです.” 当時の報告によれば、

66年 1月23日から 2月26日までの約一ケ月間、

猛虎隊 3個小隊, 2個保安大隊, 3個民間自衛隊により、

この地域だけで、

計1200名の住民が虐殺されて, そのなかにはひとり残らず抹殺された家族が8世帯にもなった. また、1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ, 649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された.

このような捜索掃討作戦は、

一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して,

韓国軍等の地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを即決処分した後、

家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した.

生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は,

無差別機関銃乱射, 大量殺戮,

妊産婦, 女性に対する強姦殺害,

家屋への放火などだ. 生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる.

-住民たち(大部分が女性と老人, 子供たち)を一ケ所に集めた後、

あるいはいくつのグループにまとめて、

機関銃を乱射して抹殺する.



-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、

家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす.



-子供の頭を割ったり首をはね,
脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む.


-女性を強姦した後、
殺害して,
妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す.



-住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる.



韓国軍の大量虐殺が強行された所では、

子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた.

老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった.

恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ.


果して、あなたたちに真の反省はあるのか


私たちにもベトナム戦は忘れたい戦争だ. 韓国は1964年、医療支援団とテックォンド教官等、270余名をサイゴンの南のプンタウに派遣することによってベトナム戦に軍事的な介入を始めた. 以後、65年から73年まで、

約30万名の戦闘部隊を‘ベトナム政府の要請’という美名の下、

ベトナム戦線に投入した.

この過程で韓国軍も4960余名が戦死して、10余万名が負傷した. しかし、韓国軍はまた、敵軍のベトナム人を4万1450名も殺す全勝(?)をおさめもした. 我が軍の死者数の10倍に達する敵軍を戦死させたのである. それも、公式的な統計上でだけ!

そして戦争は終わった. しかし、終戦24年を迎える、この瞬間にも地球上のあちらこちらからは新しい銃声が響いている. 韓国ではコソボでの人権を叫ぶ声も高い. 20世紀の傷が癒える前に、21世紀のまた違う傷ひとつを産んでいるのだ. 加害者も被害者も傷ついた‘今日’を治癒する過程なしでは、私たちに未来はないだろう. たとえ、それが良心にメスを入れる痛みを通じてだけ可能になるとしても.

歴史は私たちに疑問符ひとつを投げかけている.

果して、あなたたちに真の反省はあるのか.



ホーチミン・パンラン=ク・スジョン 通信員


vninfobank@hcm.fpt.vn


ハンギョレ21 1999年 05月 06日 第256号 .

Copyright 1995-1998 ハンギョレ新聞社
webmast@news.hani.co.kr

 これらの記事は、元々韓国の雑誌「ハンギョレ21」誌の記者が自ら取材し、韓国・ハンギョレ21誌の決定で掲載したものです.当"風窓"webに翻訳・掲載しているものは2001年12月17日現在では以下の通りです.

2001年9月374号
[報道 その後] 大統領も “ごめんなさい ベトナム” 2001年4月356号
[特集] ‘ごめんなさい ベトナム’ ファッション登場?
2000年12月339号
[特集] ‘ごめんなさい ベトナム’ 世界へ! 2000年6月312号
勲章を捨てた父
99年12月287号
ベトナムの熱い感動! 99年11月282号
兄さんの重荷を減らしてください
韓国とベトナムの読者の手紙
99年10月278号
報道 その後‘ベトナムの怨みの霊を記憶しなさい’ 99年5月256号
ああ, 震撼の韓国軍!



『ライタイハン』



ライタイハン出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
この記事を編集される方は、必ずノートをご覧下さい。
ライタイハン
各種表記
ハングル: 라이따이한
漢字:


ライタイハンの数と原因 [編集]ライタイハンの正確な数は、諸説ありはっきりしない。1500人(朝日新聞・1995年5月2日)、2千人(野村進)、最小5千人(釜山日報)[1]、7千人、1万人以上(名越二荒之助[2]など)、最大3万人(釜山日報)[1]としているものもある。彼(彼女)らの中には父親の記憶を持たず、韓国語を話せず、写真だけが唯一残された思い出という者がいる[3]。韓国との混血児は名乗りでないとの主張もある[2]。正確な調査が行われないまま、援助団体が支援を主張したため、数が膨れ上がったとの批判もある[4]。しかし、集団として注目できる、まとまった数の混血児が発生したのは事実である。

原因については韓国軍兵士による強姦、兵士や民間人が「『妻』と子供を捨てて無責任にも韓国に帰国したこと[1]」とする現地婚[5]、「ベトナム人には美人が多いので、女は皆、慰安婦にさせられた。[2]」とする慰安婦(非管理売春)などと複数のことが言われている。

ただし、南ベトナム解放民族戦線が放送によって、韓国軍による拷問や虐殺事件、あるいは婦女子への暴行事件を連日報じていた[2]ことは事実であり、各地の韓国軍による虐殺、暴行事件の生存者の証言に共通する点としても婦女に対する強姦が挙げられている[6]。

戦闘終了後の治安維持に入ると韓国軍は兵士の行動を厳しく律したが、猛虎師団の一兵士が村の娘を強姦して軍法会議にかけられる事件が起きている[7]。他方、韓国軍の兵士がベトナム人の母と子を置き捨てて帰国したため、軍司令部が再志願させてベトナムに戻し、結婚式を挙げさせた旨が伝えられている[7]。

背景 [編集]当時、韓国の朴正煕政権は反共を国是とし、分断国家としてのシンパシーを訴えて派兵を推進した。安聖基は「参加する方では『男に生まれたからには、一度は戦場に赴かねば』という気風がありました」とも指摘している[8]。南ベトナムに派兵された韓国軍は、2個師団プラス1個旅団の延べ31万名。最盛期には5万名を数えた。また、「ベトナム特需」を当てこんだ産業資本や出稼ぎの民間人も進出し、これも最盛期には2万人近く[9]がベトナムに赴いた。

韓国軍は30万人を超すベトナム人を虐殺したとも言われ、ベトナムでは村ごとに『「タイハン」の残虐行為を忘れまい』と碑を建てて残虐行為を忘れまいと誓い合っているという[10]。

こうした中でライタイハンはこれら韓国人男性とベトナム人女性との間に生まれた[5]。

兵士や出稼ぎの民間人による本国への送金は、年に1億2千万ドルを数え、1969年の韓国の外貨収入の2割に達した[9]。アメリカによる軍事・経済援助、日韓基本条約による資金援助と合わせて、漢江の奇跡の基礎となった。

ベトナム戦争が終わり、南北ベトナムが統一して既に四半世紀が通ぎた。そして韓国ではここ数年、あの戦争をめぐり長らくタブーとされてきた過去について、かつてない議論が進められている。その過去とは、ベトナム戦争に参戦した韓国軍によるベトナム民間人の虐殺問題だ。最初にタブーを破ったのは、韓国のハンギョレ新聞社が発行する週刊誌『ハンギョレ21』だった。同誌は99年、韓国軍がベトナム戦当時に起こした虐殺事件について記事を掲載したのだ(5月6日号)。この記事を書いたのは、韓国人歴史研究者のク・スジョン。彼女はベトナム戦争の韓国軍の残虐行為が記されたベトナム側の資科を入手し、韓国の市民団体の一行とともにベトナム現地で検証を始めたのだ。ある地域で、猛虎部隊(韓国軍部隊)等による1か月間の作戦で1200名もの住民が虐殺されたという66年当時のベトナム側の報告を紹介しながら、同時に生存者たちの証言に基づき虐殺の様子を具体的に描いている。例えば、生存者の証言からは韓国軍による民間人虐殺の方法にいくつか共通した類型があったようだと、同記事には記されている。以下、その部分を略して引用すると「大部分が女性や老人、子供たちである住民を一か所に集め、機関銃を乱射。子供の頭を割ったり首をはね、脚を切ったりして火に放り込む。女性を強姦してから殺害。妊産婦の腹を、胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。トンネルに追い詰めた村人を毒ガスで殺す等々」だ。日本の戦争責任を追及してきた韓国の人々にとって、自国軍も虐殺をしていたのだという告発は、苦いものであったに違いない。続いて同誌の2000年4月27日号には、住民虐殺を行なったという元軍人による加害証言が掲載された。戦争当時、一般住民とゲリラを区別するのは難しく、我が身を守るためには仕方なかったのだとその元軍人は述壊した。しかし同時に、今やその行為に罪の意識をもち、韓国政府がベトナムに謝罪し被害者に補償することを望むという彼の声も、同誌では伝えられた。これと前後して米誌『ニューズウィーク』が「暴かれた英雄の犯罪」と題してベトナム戦争での韓国軍の虐殺問題を取り上げた(2000年4月21日号)。ク・スジョンらの調査を紹介しつつ、「8000人以上の民間人を殺した韓国軍の虐殺行為の数々」が明らかにされつつあると、7ページにわたり大々的に報じたのだ。タブーであった虐殺事件についてのこれらの報道に対し、韓国国内では激しい反撃が起きた。同年6月27日には、ベトナム戦に従軍した退役軍人ら2000人余りがハンギョレ新聞社に乱入しコンピュータなどを破壊した。彼らは「大韓民国枯葉剤後遺症戦友会」のメンバーで、国のために闘った戦友を冒涜されたと激しく抗議したのだ。ベトナムへの韓国人派兵は64年に始まり、延べで30万人以上の兵士を送り込んだ。米国に次ぐ大派兵であった。この戦争で約5000人の韓国人が死んだ。ハンギョレ新聞社に乱入した元兵士たちがそうであったように、アメリカ軍が散布した枯れ葉剤の被害に苦しむ元兵士らが、今も韓国には多い。

ベトナム戦争当時、

韓国軍総司令官だった蔡命新は、

先の『ニューズウィーク』でのインタビューで「誰に対しても償う必要はない。あれは戦争だった」と明言している。

アメリカ軍によるソンミ事件などの虐殺行為がベトナム戦争当時から国際的に批判を受け議論の的となったのとは対照的に、

韓国軍による虐殺行為については、

こと韓国国内では長く沈黙が保たれてきた。

(中略)また全斗煥・盧泰愚両大統領がベトナム戦争で武勲を挙げた軍人であったという政治事情もあり、ベトナム戦での過去は、韓国では幾重にもタブーであり続けた。しかし、冷戦終結と韓国の民主化により、このタブーは破られた。(中略)韓国の歴史教科書には、ベトナム戦争についてほとんど記述はされていない。中学生向けの国定教科書に記されているのは「そして、共産侵略を受けているベトナムを支援するために国軍を派兵した」の約1行のみだ。

(佐藤和「被害者史観韓国を揺るがすベトナム民間人虐殺の加害責任」『SAPIO』2001年9月26日号)

1965年から1966年の間、プウエン省のタオ村で、韓国軍は、ほとんど大部分が婦人の村人42人を狩り立て、やがて小火器を浴びせ、全員を殺害した。

1966年1月11日から19日の間、ジェファーソン作戦の展開されたビンディン省では、韓国軍は300人以上の住民を捕まえ、拷問を加え、更にまた400人以上のベトナム人を殺した。

1965年12月から1966年1月の間に、韓国軍は、ビンディン省のプレアン村では数百戸の家々を炎上させ、一方キンタイ村を完全に掃討した。同じ省の九つの村々で韓国軍は、民間人に対して化学兵器を使用したのである。1966年1月1日から同月4日までの間に、ブン・トアフラおよびヨビン・ホアフラ地方で、

韓国軍は、住民たちの所有物を残らず略奪したうえ、住民の家やカオダイ教の聖堂を焼き、さらに数千頭の家畜を殺した。彼らは、また仏教寺院から数トンもの貨幣をくすね、それから人民を殺したのである。「ある村が、わが軍の支配下に陥ると、その次の仕事はベトコンから村人たちを分け離すことなのだ」こう言ってのけたという韓国軍将校の話しが引用された。


ナムフュン郡で、

韓国軍は4人の老人と3人の妊婦を、防空壕の中へ押し込め、ナパームとガスで殺した。

アンヤン省の三つの村では110人を、またポカン村では32人以上を、こうしたやり方で、殺したのである。

1966年2月26日、韓国軍部隊は、137人の婦人、それに40人の老人と76人の子供も一緒に、防空壕の中へ押し込めて、化学薬で殺したり、全員を盲にさせたりした。


1966年3月26日から28日にかけて、ビンディン省で、韓国軍は、数千におよぶ農家と古寺院を炎上させ、若い女性や年老いた女性を集団強姦した。8月までに、勇猛な朝鮮人たちは、ビンディン省における焦土作戦を完了した。


ブガツ省では、

3万5千人の人たちが、

死の谷に狩り立てられ、

拷問を完膚なきまで加えられてから全員が殺された。




10月には、メコン河流域では、裸で両手ないしは両足の19人の遺体が川から引揚げられた。

これらは、いずれも陵辱された少女たちの遺骸であった。


この事件に先立って、同じ地域で共同作戦中の米軍と韓国軍が、

昼日中に結婚の行列を襲い、花嫁を含め7人の女性を強姦した、との報道もあった。

かれらは、結婚式に呼ばれた客の宝石を残らず奪ったうえ、
3人の女性を川の中へ投げ込んだ。
放火、銃剣による突き殺し、拷問、強姦、強奪こんな記事は、
ほとんど毎日のように続いている。

母親の胸に抱かれたいたいけな乳幼児でさえも、
非人間的な殺人行為を免れることができないのだ。
これは、たった一都市に起きた南京大虐殺どころの話ではないのだ。
これこそ、アメリカの新聞の力をもってしても、
中国の南京で起こった話を語ることのできない、
今日のベトナム民族大虐殺なのである。


つまり今日では米軍および韓国軍の検閲官が全強権を発動し、

事実が明るみに出るのを妨げているのである。

(中略)なぜ在ベトナム韓国軍がかくも攻撃的で残酷であるかという理由は、

彼らが、アメリカが与えてくれた援助に対してお返しをするためであり、

さらにまたそれは韓国民に対して彼らが、

アジアにおいて平定の役割を演ずることができるのだという誇りと確信の感情を与えるためである、

と1967年5月、ソウル政府当局は日本人記者に説明した。(D.W.W.コンデ『朝鮮-新しい危機の内幕-』新時代社、1969年)

韓国政府の対応 [編集]ライタイハンが表面化して後も、韓国政府による積極的な援護策は取られていない。しかし韓国の民間団体[1]やキリスト教団体とベトナム政府の支援により、支援施設(職業訓練学校)が設立され[11]、無償での職業訓練と韓国語の教育が行われた。ただし、ライタイハンの支援よりも、ベトナム国民を対象とした活動になっているとの批判がある[4]。

ライタイハン自身が、韓国人である父親に対して実子であることの認知訴訟を起こし、判決により韓国国籍を取得する動きもある[12]。盧武鉉政権は2006年に、写真など客観的に立証できる手段があれば韓国の国籍を付与する法案を検討するとした[13]。

なお、韓国政府は2009年にベトナム戦争の解釈をめぐってベトナム政府と衝突するという事件があった。2009年に韓国の国家報勲庁が国家報勲制度の改定作業を行い、国会に法案改正の趣旨説明文書を提出した。

この文書でベトナム戦争参戦者を

「世界平和の維持に貢献したベトナム戦争参戦勇士」と表現したことに

ベトナムが、「我々は被害者。ベトナム戦争の目的が、なぜ世界平和の維持なのか」と猛反発し、

予定された李明博大統領のベトナム訪問も拒否する方針を伝えた。

韓国側は、柳明桓外交通商相をベトナムに派遣し、

外相会談で「世界平和の維持に貢献」の文言を削除することを約束し、

李大統領のベトナム訪問を予定通り実現させた。

一連の外交交渉で、ベトナム政府は「侵略者は未来志向といった言葉を使いたがり、過去を忘れようとする」と批判した[14]。

韓国マスメディアの反応 [編集]後の韓国大統領である全斗煥、盧泰愚はともにベトナム派兵で活躍した指揮官だった。最大の圧力団体である軍部の存在もあって、韓国ではベトナム戦争を批判的に取り上げることをタブー視する雰囲気が存在した。しかし後年、徐々に国民の意識が変わり、SBSでライタイハンをテーマとしたドキュメンタリー『大韓の涙[15][16]』が放送されたり、ハンギョレのようにベトナムでの韓国の戦争犯罪やライタイハン問題を積極的に取り上げる動きもある。だが、その都度、退役ベトナム参戦兵士団体から強い抗議を受ける事実もある[要出典]。

フィクションでは、2007年にSBS放送で、新ライタイハンがヒロインの連続テレビドラマ『黄金の花嫁』が放送された[17]。

アメラジアン [編集]戦時下のベトナムにおいては、アメリカ軍兵士とベトナム人女性との間にも多くの二世が産まれた。一説には1万5千人ないし2万人と言われる。詳しくはアメラジアンを参照のこと。

統一後のベトナムでは、当初、ライタイハン同様に「敵国の子」とされ、迫害の対象となった。

1987年、米国政府は混血児とその家族の移住を受け入れ始めたが、なおベトナムに留まる者も多かった[18]。しかし、その後越中戦争(中越戦争とも)において中国と敵対した関係から西側諸国とベトナムとの関係改善が割合早期に行われたことと、戦中も紳士的な振る舞いをする米軍兵士が少なくなかったことから、ライタイハン程激しくはなく、ドイモイ以降の政府の親米路線により激しい迫害は見られなくなった。


コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索