『朝鮮人の強制連行めぐり「ピースおおさか」が“虚偽”展示 写真4枚を撤去』
2011年10月30日 アニメ・マンガ『朝鮮人の強制連行めぐり「ピースおおさか」が“虚偽”展示 写真4枚を撤去』
ミカエルです
ライブドアのニュースからです
2011年10月29日01時53分
提供:産経新聞
戦争と平和の調査研究と展示を目的に、
大阪府と大阪市が出資して設立した
財団法人「大阪国際平和センター」(ピースおおさか)
=大阪市中央区=は
28日、日中戦争をテーマに、
朝鮮人労働者の強制連行などについて展示された「朝鮮コーナー」の写真4枚すべてが、
解説文の内容と異なっていたとして撤去した。
朝鮮半島で撮影された写真を、
日本での強制労働の様子と紹介したものや、
日中戦争時の写真としていたものが、
大正時代の撮影だったことが判明するなどしたという。
いずれも、平成3年の開館当初から展示されていた。
ピースおおさかによると、
橋下徹知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」所属の府議から、
今年9月に間違いではないかと指摘され、調査していた。
問題が発覚した写真4枚は、
日中戦争をテーマにした展示室Bの「朝鮮コーナー」に展示され、
朝鮮人の強制連行と
強制労働の解説文と並べて使われていた。
解説文は、
強制連行について
「昭和14年以降、労働力不足を補うため、
朝鮮人を強制的に日本に連行して労働に従事させた。
形式的に募集、官斡旋などと称されていたが
実質的には全て強制だった」などと記述。
そのうえで、
「ダム建設現場のトロッコ押し」と紹介されていた写真は、
出典元の新聞社が発行した出版物を調べた結果、
日本国内の写真ではなく
朝鮮半島で建設された「水豊ダム」の工事現場で撮影されたもので、
強制連行と無関係だと判明した。
また「虐待された土木労働者」と題した写真は、
同じ写真が、大正15年9月9日付の新聞に掲載されていたことが分かった。
「鉄道工事場での朝鮮人虐殺」としていた写真2枚も、
同じ写真が掲載された新聞社の出版物から、
昭和7年に起きていたことが確認できた。
いずれも昭和14年以前の写真で、
解説文との整合性がとれないと判断した。
ピースおおさかの開館以来の見学者は
今年9月末までに計約166万人。
近年の来館者の6~7割は、小中学生や高校生で、
主に課外学習に利用されている。
より子供が理解しやすい内容に、
展示を変更することを検討しており、
25年4月のリニューアルオープンを目指している。
一方で、展示が自虐史観に基づく内容になっていると批判の声が出ており、
維新の府議らが今年8月と9月に、
施設を視察。橋下知事は「議会での議論を通じ府民の意思を反映すべきだ」と指摘していた。
ピースおおさかの倉田清館長は
「展示を企画した担当者はすでに他界しており、
どういう経緯でこれらの写真を使ったのかは、
今となっては分からない。
20年間も不適切な展示を続けたことをおわびしたい」と話している。
=========================
なんですって?
おわびなんぞで、済む問題ですか?
韓国のダムを、作ってる写真を、強制労働だ?
なんて、言ってたわけ?
言語道断!!
==========================
日本人の拉致は、ただの誘拐ではない。
外国へのテロの実践のための人間を養成するための人材収集である。
しかも、犯罪を、日本人にみせかけるための物だったのである。
信じられない事に、大韓航空機の爆破も、
一時、犯人は、日本人と報道されていたきらいがある・・・。
現在の反日感情は、計画的に、作られてた可能性、大きい☆
北朝鮮が、みずからの犯罪を隠ぺいするために・・・。
北朝鮮への報復を、逃れるために・・・
そして、その間に、南進を、計画していた・・・。
きのうの安倍晋三さんのお話を、聞いてそう思いました・・・。
朴大統領 暗殺未遂事件 で、検索してみました。
青瓦台襲撃未遂事件
青瓦台襲撃未遂事件(せいがだいしゅうげきみすいじけん、朝鮮語: 청와대 습격미수사건、1.21 事態〈1.21じたい、1.21 사태〉)は、1968年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)ゲリラにより発生した、大韓民国大統領府「青瓦台」(청와대、チョンワデ)への襲撃未遂事件。金新朝事件(キム・シンジョじけん、김신조 사건)とも呼ばれる。
目次
[非表示] 1 武力衝突の発生
2 ゲリラ侵攻
3 朴政権の対応
4 関連項目
武力衝突の発生 [編集]
1966年1月に韓国漁船が北朝鮮の魚雷艇に襲撃されて以来、11月と1967年4月には、北緯38度線で大規模な戦闘が発生し、南北の緊張は一触即発の状態であった。ソビエト連邦の情報部の分析では、これらの戦闘を扇動しているのは北朝鮮であった。
北朝鮮は1966年に対南工作を専門とした第283部隊を参謀部偵察局内に設立、内部粛清によって1967年8月12日に第283部隊を朝鮮人民軍第124部隊(のちに特殊第8軍団に改称、現在の軽歩兵教導指導局)に改変して、南進の準備を進めた。
ゲリラ侵攻 [編集]
1968年1月、青瓦台の襲撃による朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と閣僚の暗殺を狙って、第124部隊第1中隊第1小隊に所属する31名は、韓国軍第26師団の模擬制服で変装して休戦ラインを突破し、韓国領に侵入した。この際、韓国市民に偶然遭遇しているが、身分証などで住所氏名等を教えさせたうえで「通報すれば一族もろとも消す」等と脅迫して口止めした上で解放した。この韓国市民は、解放された後に警察に通報した。
1月21日、ソウル市内に入ると、持参した日本製の背広とレインコートに着替え、青瓦台800メートル手前の北漢山まで侵入した。しかし、先の市民の通報によるゲリラ情報等により警戒中だった韓国当局に検問を受け、その場で自動小銃を乱射して逃亡。突入は阻止された。
韓国軍と警察部隊の2週間に及ぶ掃討作戦により、1名が逮捕、29名が射殺され、1名が自爆した。また、射殺は27人で、1名から3名が逃亡したともいわれる。2名が重傷を負いながら軍事境界線を越えて帰国したという話もある。2週間の銃撃戦で韓国側は軍人・警察官と巻き添えの民間人の計68名が死亡した。
逮捕されたのは当時27歳の金新朝(キム・シンジョ)少尉で、彼の供述により北朝鮮における特殊部隊の存在が明らかになった。また、「軍事独裁を敷く朴大統領が殺害されれば、韓国民衆は必ず労働者革命を起こす」と分析していたという。また金少尉はテレビカメラに向かって「私は朴正煕の首を取りにやってきた」と言い放ち、韓国国民に衝撃を与えた(現在は、ソウル市内の教会で牧師として働いている)。
朴政権の対応 [編集]
朴正煕大統領は事件直後、駐韓アメリカ大使に「北の奴等が私を殺しにきた」、「北を攻撃しなければならない。2日で平壌まで進める」と、憤りをあらわにした。事件を北朝鮮が謝罪しない場合は、報復攻撃を行うべきとの書簡をアメリカのリンドン・B・ジョンソン大統領に送った。
ところが、直後の1月23日にプエブロ号事件が発生する。アメリカは報復のために空母を派遣するが、すでにベトナム戦争を戦っている中で新たに朝鮮半島で軍事行動を起こす余力が無く、また北朝鮮と同盟していたソビエト連邦と直接戦争に至る可能性を考慮して、ジョンソンは外交交渉を選んだ。アメリカの援助を受けられないと知った朴は軍の北進を断念した。
しかし朴は「われわれは日夜、このようにやられてばかりいるのか。何か方法はないのか。報復する方法が」と北朝鮮への対抗策を求め、政権内部での発言力を強めたかったKCIAの金炯旭部長が金日成暗殺部隊の創設を決意した。
これによって1968年4月に創設された空軍2325戦隊209派遣隊は創設年月から通称「684部隊」と呼ばれ、青瓦台を襲撃した北朝鮮工作員の人数と同じ31人の隊員から構成された。部隊は仁川沖合の実尾島で訓練を受けることになったが、結局1970年以降南北融和の流れが加速したために金日成暗殺は現実的でなくなり、1971年に計画は撤回された。
完全に宙に浮いた存在となってしまった684部隊の待遇は悪化し、不満が増大した部隊員は1971年8月23日に叛乱を起こす。バスを乗っ取ってソウル市内に向けて進み、軍・警察との銃撃戦の末に自爆した(実尾島事件)。同事件は、後に『シルミド』として映画化されるなど、韓国国内で見直しが進んでいる。
韓国軍は、日本人のふりをして、韓国大統領の暗殺を、試みたらしく、
一時、反日感情が、すごく、韓国の日本大使館は、焼き討ちにあったそうです。
それにしても、
卑劣な韓国軍、と、韓国軍人。
革命を、起こしたいその時でさえ、
日本人に罪を、なすりつけようとしていた・・・。
ミカエルです
ライブドアのニュースからです
2011年10月29日01時53分
提供:産経新聞
戦争と平和の調査研究と展示を目的に、
大阪府と大阪市が出資して設立した
財団法人「大阪国際平和センター」(ピースおおさか)
=大阪市中央区=は
28日、日中戦争をテーマに、
朝鮮人労働者の強制連行などについて展示された「朝鮮コーナー」の写真4枚すべてが、
解説文の内容と異なっていたとして撤去した。
朝鮮半島で撮影された写真を、
日本での強制労働の様子と紹介したものや、
日中戦争時の写真としていたものが、
大正時代の撮影だったことが判明するなどしたという。
いずれも、平成3年の開館当初から展示されていた。
ピースおおさかによると、
橋下徹知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」所属の府議から、
今年9月に間違いではないかと指摘され、調査していた。
問題が発覚した写真4枚は、
日中戦争をテーマにした展示室Bの「朝鮮コーナー」に展示され、
朝鮮人の強制連行と
強制労働の解説文と並べて使われていた。
解説文は、
強制連行について
「昭和14年以降、労働力不足を補うため、
朝鮮人を強制的に日本に連行して労働に従事させた。
形式的に募集、官斡旋などと称されていたが
実質的には全て強制だった」などと記述。
そのうえで、
「ダム建設現場のトロッコ押し」と紹介されていた写真は、
出典元の新聞社が発行した出版物を調べた結果、
日本国内の写真ではなく
朝鮮半島で建設された「水豊ダム」の工事現場で撮影されたもので、
強制連行と無関係だと判明した。
また「虐待された土木労働者」と題した写真は、
同じ写真が、大正15年9月9日付の新聞に掲載されていたことが分かった。
「鉄道工事場での朝鮮人虐殺」としていた写真2枚も、
同じ写真が掲載された新聞社の出版物から、
昭和7年に起きていたことが確認できた。
いずれも昭和14年以前の写真で、
解説文との整合性がとれないと判断した。
ピースおおさかの開館以来の見学者は
今年9月末までに計約166万人。
近年の来館者の6~7割は、小中学生や高校生で、
主に課外学習に利用されている。
より子供が理解しやすい内容に、
展示を変更することを検討しており、
25年4月のリニューアルオープンを目指している。
一方で、展示が自虐史観に基づく内容になっていると批判の声が出ており、
維新の府議らが今年8月と9月に、
施設を視察。橋下知事は「議会での議論を通じ府民の意思を反映すべきだ」と指摘していた。
ピースおおさかの倉田清館長は
「展示を企画した担当者はすでに他界しており、
どういう経緯でこれらの写真を使ったのかは、
今となっては分からない。
20年間も不適切な展示を続けたことをおわびしたい」と話している。
=========================
なんですって?
おわびなんぞで、済む問題ですか?
韓国のダムを、作ってる写真を、強制労働だ?
なんて、言ってたわけ?
言語道断!!
==========================
日本人の拉致は、ただの誘拐ではない。
外国へのテロの実践のための人間を養成するための人材収集である。
しかも、犯罪を、日本人にみせかけるための物だったのである。
信じられない事に、大韓航空機の爆破も、
一時、犯人は、日本人と報道されていたきらいがある・・・。
現在の反日感情は、計画的に、作られてた可能性、大きい☆
北朝鮮が、みずからの犯罪を隠ぺいするために・・・。
北朝鮮への報復を、逃れるために・・・
そして、その間に、南進を、計画していた・・・。
きのうの安倍晋三さんのお話を、聞いてそう思いました・・・。
朴大統領 暗殺未遂事件 で、検索してみました。
青瓦台襲撃未遂事件
青瓦台襲撃未遂事件(せいがだいしゅうげきみすいじけん、朝鮮語: 청와대 습격미수사건、1.21 事態〈1.21じたい、1.21 사태〉)は、1968年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)ゲリラにより発生した、大韓民国大統領府「青瓦台」(청와대、チョンワデ)への襲撃未遂事件。金新朝事件(キム・シンジョじけん、김신조 사건)とも呼ばれる。
目次
[非表示] 1 武力衝突の発生
2 ゲリラ侵攻
3 朴政権の対応
4 関連項目
武力衝突の発生 [編集]
1966年1月に韓国漁船が北朝鮮の魚雷艇に襲撃されて以来、11月と1967年4月には、北緯38度線で大規模な戦闘が発生し、南北の緊張は一触即発の状態であった。ソビエト連邦の情報部の分析では、これらの戦闘を扇動しているのは北朝鮮であった。
北朝鮮は1966年に対南工作を専門とした第283部隊を参謀部偵察局内に設立、内部粛清によって1967年8月12日に第283部隊を朝鮮人民軍第124部隊(のちに特殊第8軍団に改称、現在の軽歩兵教導指導局)に改変して、南進の準備を進めた。
ゲリラ侵攻 [編集]
1968年1月、青瓦台の襲撃による朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と閣僚の暗殺を狙って、第124部隊第1中隊第1小隊に所属する31名は、韓国軍第26師団の模擬制服で変装して休戦ラインを突破し、韓国領に侵入した。この際、韓国市民に偶然遭遇しているが、身分証などで住所氏名等を教えさせたうえで「通報すれば一族もろとも消す」等と脅迫して口止めした上で解放した。この韓国市民は、解放された後に警察に通報した。
1月21日、ソウル市内に入ると、持参した日本製の背広とレインコートに着替え、青瓦台800メートル手前の北漢山まで侵入した。しかし、先の市民の通報によるゲリラ情報等により警戒中だった韓国当局に検問を受け、その場で自動小銃を乱射して逃亡。突入は阻止された。
韓国軍と警察部隊の2週間に及ぶ掃討作戦により、1名が逮捕、29名が射殺され、1名が自爆した。また、射殺は27人で、1名から3名が逃亡したともいわれる。2名が重傷を負いながら軍事境界線を越えて帰国したという話もある。2週間の銃撃戦で韓国側は軍人・警察官と巻き添えの民間人の計68名が死亡した。
逮捕されたのは当時27歳の金新朝(キム・シンジョ)少尉で、彼の供述により北朝鮮における特殊部隊の存在が明らかになった。また、「軍事独裁を敷く朴大統領が殺害されれば、韓国民衆は必ず労働者革命を起こす」と分析していたという。また金少尉はテレビカメラに向かって「私は朴正煕の首を取りにやってきた」と言い放ち、韓国国民に衝撃を与えた(現在は、ソウル市内の教会で牧師として働いている)。
朴政権の対応 [編集]
朴正煕大統領は事件直後、駐韓アメリカ大使に「北の奴等が私を殺しにきた」、「北を攻撃しなければならない。2日で平壌まで進める」と、憤りをあらわにした。事件を北朝鮮が謝罪しない場合は、報復攻撃を行うべきとの書簡をアメリカのリンドン・B・ジョンソン大統領に送った。
ところが、直後の1月23日にプエブロ号事件が発生する。アメリカは報復のために空母を派遣するが、すでにベトナム戦争を戦っている中で新たに朝鮮半島で軍事行動を起こす余力が無く、また北朝鮮と同盟していたソビエト連邦と直接戦争に至る可能性を考慮して、ジョンソンは外交交渉を選んだ。アメリカの援助を受けられないと知った朴は軍の北進を断念した。
しかし朴は「われわれは日夜、このようにやられてばかりいるのか。何か方法はないのか。報復する方法が」と北朝鮮への対抗策を求め、政権内部での発言力を強めたかったKCIAの金炯旭部長が金日成暗殺部隊の創設を決意した。
これによって1968年4月に創設された空軍2325戦隊209派遣隊は創設年月から通称「684部隊」と呼ばれ、青瓦台を襲撃した北朝鮮工作員の人数と同じ31人の隊員から構成された。部隊は仁川沖合の実尾島で訓練を受けることになったが、結局1970年以降南北融和の流れが加速したために金日成暗殺は現実的でなくなり、1971年に計画は撤回された。
完全に宙に浮いた存在となってしまった684部隊の待遇は悪化し、不満が増大した部隊員は1971年8月23日に叛乱を起こす。バスを乗っ取ってソウル市内に向けて進み、軍・警察との銃撃戦の末に自爆した(実尾島事件)。同事件は、後に『シルミド』として映画化されるなど、韓国国内で見直しが進んでいる。
韓国軍は、日本人のふりをして、韓国大統領の暗殺を、試みたらしく、
一時、反日感情が、すごく、韓国の日本大使館は、焼き討ちにあったそうです。
それにしても、
卑劣な韓国軍、と、韓国軍人。
革命を、起こしたいその時でさえ、
日本人に罪を、なすりつけようとしていた・・・。
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