『日本は、日露戦争で、ポーツマス条約で、ロシアから南満州の権益を、譲られていた。
勝手に、満州に、入ったのではない・・・』



                        ミカエルです



今日の読売新聞を、読んで、あまりに、違う記述だったもので・・・

コピペ


中村大尉殺害事件で昭和6(1931)年9月18日になって、やっとシナ側が中村大尉の殺害を認めたわけだが、その日の夜の午後10時半ごろ、満州にある奉天の北方約8キロにある柳条溝において、満洲鉄道(満鉄)の線路が爆破された(柳条溝[柳条湖]事件)。
関東軍はこれをシナ軍(張学良軍)の仕業として、直ちにその根拠たる北大営を攻撃し、北大営のシナ軍を敗走せしめ、翌日には関東軍は満州鉄道沿線の諸都市をことごとく占領した。
張学良軍はほとんど無抵抗で退却、わずか二ヶ月で関東軍は全満州を占領した。

関東軍の1万数千人に対し、張学良軍は30~40万人いたのだが、


張学良軍は、シナの軍隊の常である馬賊・匪賊の寄せ集めで満州の民衆の支持をまったく得ていなかった。


張作霖・張学良時代、
満州の民衆は悪政(国家予算の85%が軍事費、数年先分までの税金の前払いを強制、など)に苦しめられていたために
関東軍は難なく満州を占領できたのである。

東京裁判以来の反日・自虐史観では、


この満州事変は日本のシナ侵略の第一段階と決め付けている。

しかし、日本側が起こさなければシナ側が必ず起こしていたものである。それほど満州は緊迫した状況になっていたのだ。柳条溝事件は無数の原因の累計の上に加えられた最後の小原因であり、満州事変は東京裁判で決め付けられたような「シナ侵略の出発点」では決してなく、


4半世紀にわたるシナの排日侮日政策の必然的結果であった。

中村粲氏は「大東亜戦争への道」の中で以下のように喝破している。
「危険なガスの充満する満洲で、現実に柳条溝の満鉄爆破事件というマッチを擦ったのが日本側であったことは、今日知らぬ者とてない。東京裁判以来、満洲事変はわが国の中国侵略の第一段階とするのが定説のごとくだ。

だが、日本側が点火しなければ、必ず中国側にひょって点火されていたに違いない。それ程、満洲の緊迫状況は持ちこたえ得る限界に近づいていた。・・・それ故、満洲事変は原因ではない」



この当時の日本軍の行動は、
当時の先進国と呼ばれた国ならどこでもやっていることである。

それなのに、同じことを日本がやれば「侵略」で、
欧米がやれば「侵略ではない」という理屈がどうしてできるのだろうか。

そもそも、当時の満州で日本が軍事行動を起こしたことについて、

国際法上、何の問題もない。

というのも、第一に日露戦争のポーツマス条約において、

日本はロシアから南満州における権益を譲られている。

これは当時のシナ政権も承認したことであって、

何も不法に満州に入っていたわけではない。

しかも、満州にいた日本人が、満州事変当時、

シナ人によって危険な状況にあったのも動かしがたい事実である。

関東軍が満州事変を起こした目的は、

このような危機的状況を解決するために、

シナの軍隊や匪賊を満州から排除することにあった。

現地の居留民に危害が及んだ場合、

本国政府が彼らの安全を守ろうとするのは、

今日の世界でも当たり前に行われていることである。

そのために軍隊が出動するというのは、

当時の国際社会では広く認められたことであった。


関東軍は

朝鮮人を含む日本人居留民の安全を守るために実力行使をしたのであって、

これは外交上、特に非道なことをやったとは言えない。


しかも、関東軍は満州を制圧したまま居すわったわけではない。

満州地方の安全を維持するため、溥儀を迎えて満州国を作った。





アタシは思うんだけど、


侵略とは、欧米の植民地を、日本が、侵略したと言いたいのだよ・・・。

それは、間違いない事実だ・・・。


そして、日本は、アジアの植民地全域を、解放したのだ・・・・。

戦闘には、負けたけれど、戦争には、勝ったのである。

軍事目的を遂げた事を勝利とするなら、立派に、勝利した・・・。

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