『日中戦争を、引き起こした、通州残虐事件・・・・』くしざしにされた日本人、惨殺された写真は、逆に、南京大虐殺に使用される
当時の中国の経済力・カオス状態をみれば、長期の安定維持は無理。日本軍・南京国民政府 ( 汪兆銘政権 ) の支配下にあった 「 敵区 」 が民衆に歓迎されたのは、重慶軍や匪賊の略奪から解放されたから。それほど中国は乱れに乱れ、国家の体をなしていなかった。
ミカエルです
日中戦争が、なぜ、起こったのか、
よく、わからなかったんだけど、
その前に、残虐を極める通州事件なる物が、起きていたそうだ・・・。
もちろん、中国の歴史の教科書にも、
東京裁判にも、書かれていない・・・。
中国が、残虐事件に用いる写真の被害者の多くが・・・
日本人である・・・。
重慶爆撃にいたるまでの通州事件を、見て欲しい・・・。
また、重慶は、視界が、非常に悪い場所だった・・・。
通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に中国の通州において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍部隊・特務機関及び日本人居留民を襲撃し、大量虐殺した事件。日本軍は壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害され、殺害方法も猟奇的なものが多かった[1]。また朝鮮人慰安婦も殺害されている。
通州事件の生存者
通州は、北平(現:北京市)の東約12kmにあった通県(現:北京市通州区北部)の中心都市で、日本人を妻とする殷汝耕が南京政府から離脱して設立した冀東防共自治政府が置かれていた[2]。また、北京議定書に基づき、欧米列強同様に日本軍が邦人居留民保護の目的で駐留していた。
関東軍の誤爆[編集]
冀東防共自治政府保安隊の兵力は1万余で、機関銃や野砲も装備していた[1]。通州の宝通寺には中国第29軍の1個営が駐屯していた[1]。7月25日の廊坊事件翌日の26日、日本側は中国軍宝通寺部隊に対して北京への撤退を求める最後通告を行ったが、中国軍からの回答はなかったため、7月27日早朝、日本軍は攻撃を開始、正午までに宝通寺部隊は潰滅した[1][8]。この際、日本の関東軍の爆撃機が、誤って冀東保安隊幹部訓練所に爆撃し、数名の保安隊員が死亡した[1][8]。細木繁特務機関長は、冀東政府の殷汝耕長官に陳謝し、翌28日には保安隊に対して釈明し、賠償に誠意を尽くした[1][8]。
国民政府によるデマ放送[編集]
長いので、はしょろう。
冀東防共自治政府保安隊と第二十九軍の関係[編集]
事件発生[編集]
日本軍守備隊への攻撃[編集]
当時大使館付陸軍武官補佐官であった今井武夫は、
「もっともこれは単に通州だけに突発した事件ではなく、
かねて冀察第二十九軍軍長宋哲元の命令に基づき、
華北各地の保安隊がほとんど全部、
29日午前2時を期して、
一斉に蜂起し、
日本側を攻撃したものである」と述べている[14]。
日本人居留民への暴虐行為[編集]
中国保安隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し略奪、暴行、強姦などを行なった[1]。
7月30日午後通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、飲食店の旭軒では40から17~8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた[1]。日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したもの」であった[1]。
第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、
旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、
着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、
また陰部は刃物でえぐられていた[1]。
帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた[1]。
女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった[1]。
カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた[1]。
南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた[1]。
当時、同盟通信特派員の安藤利男はこの近水楼に宿泊していたが脱走に成功した[1]。
また支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、
守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた[1]。
鼻に針金を通された子供や、
片腕を切られた老婆、
腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、
ゴミばこや壕から続々発見され、
ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた[1]。
14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、
旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、
口に土砂をつめてあったり、
腹を縦に断ち割った遺体があった[1]。
東門近くの池には、首を縄で縛り、
両手を合わせて鉄線を貫き、
6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、
池は血で赤くなっていた[1]。
被害者数[編集]
在留日本人385名のうち223名が虐殺された[11]。
渡部昇一は日本軍留守部隊約110名と日本人居留民約380名が襲撃され、260名が惨殺されたとしている[13]。
陸軍省の1937年8月5日の調査では死者184、男93,女57、損傷がひどく性別不明の遺体34、生存者は134名(日本内地人77、朝鮮人57名)だった[8]。
朝鮮人慰安婦の被害者数[編集]
「慰安婦」を参照
当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』によれば、犠牲者の数は日本人104名と朝鮮人108名であり、殺害された朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦(慰安婦)にして在住未登録なりしもの」であった[8]。信夫清三郎は、朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示しているとした[8]。
その他の生存者の証言[編集]
九死に一生を得た日本人女性の発言
「日本人は殆ど殺されているでしょう。
昔シベリアの尼港事件も丁度このような恐ろしさであったろうと思います」[15]。
吉林生まれで5歳時に河北省の通県で一家の父母と妹が虐殺された者が、
中国人看護婦により自分の子であると庇われ、
九死に一生を得て日本に帰還した。
父は医院を開業していたが、
保安隊が襲う直前に遺書を書き中国人看護婦(何鳳岐:か ほうき)に預けたという[16]。
事件当時の反響[編集]
天津の支那派遣軍司令部は、陸軍省新聞班の松村秀逸少佐に新聞報道を制限するよう要請したが、松村秀逸少佐は、事件は北京近くで発生し、すでに北京の租界から全世界へ報道されているので無駄と応じた[8]。
東京日日新聞は1937年7月31日付号外で「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐」と事件を報道した。
日本共産党の創設にも関わった山川均は、
雑誌『改造』1937年(昭和12年)9月号に「支那軍の鬼畜性」という文章を発表し、
「鬼畜に等しい、残虐行為こそが支那の新聞では国民感情の昂揚に役立っているのである」
「通州事件もまた、ひとえに国民政府が抗日教育を普及し、抗日意識を植え付け、抗日感情を煽った結果である」
「支那の抗日読本にも日本人の鼻に針金を通せと書いてあるわけではない。
しかし、人間の一皮下にかくれている鬼畜を排外主義と国民感情で煽動すると、鼻の孔に針金を通させることになる」と事件の残虐性と、
中国の反日政策との関連について論評した[17]。
小林よしのりは
通州事件によって当時の日本で反中感情の世論が巻き起こり、
軍部支持に傾いたとした[18]。
また、江口圭一も
「通州事件は日本を逆上させ、暴支膺懲を加速し増幅させた。
中国は通州での非行について高すぎる代償を支払わされることとなる」と記した[7]。
冀東政府による謝罪[編集]
1937年(昭和12年)12月22日、冀東政府政務長官の池宗墨と北京大使館の森島守人参事官とが会談し、冀東政府による謝罪と慰謝金、損害賠償120万円を交付し、事件は収束した[19]。12月24日には両政府で公文交換が行われ、「冀東政府より森島参事官宛て書翰」では、事件関係者が処罰または逃亡したと説明された[20]。
東京裁判における通州事件[編集]
戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、
弁護団は「通州事件」について、
外務省の公式声明を証拠として提出しようとした。
ウェッブ裁判長によって却下されたが、証言は残された[1]。
影響等[編集]
日本人の平均的倫理観から見て尋常ならざる殺害の状況
(強姦され陰部にほうきを刺された女性の遺体、テーブルの上に並べられていた喫茶店の女子店員の生首、
斬首後死姦された女性の遺体、
腹から腸を取り出された遺体、
針金で鼻輪を通された子供など)を生存者であった『同盟通信記者「安藤利男」』が
「通州の日本人大虐殺」文藝春秋昭和30年(1955年)8月号で発表し、
日本で反中感情が強まった[1][21]。
◎近年ではこの事件に対する報道は中国では皆無である。
中国政府公式対外宣伝刊行物の『南京大虐殺写真集』の目次では『盧溝橋にて「北支事変」勃発、日本は華北を侵略する。
日本軍は第二次上海事変を起こし、上海へ出兵する。』と述べており、
この事件については一切触れられていない。
主犯の張慶餘は通州事件後は中国国民党軍に属し、最終的に中将まで昇格している[22]。
事件諸説[編集]
この事件は、中国兵の引き起こしたものである、
逃げようとして起きた事故などでは、決してない!!
当時の中国の経済力・カオス状態をみれば、長期の安定維持は無理。日本軍・南京国民政府 ( 汪兆銘政権 ) の支配下にあった 「 敵区 」 が民衆に歓迎されたのは、重慶軍や匪賊の略奪から解放されたから。それほど中国は乱れに乱れ、国家の体をなしていなかった。
ミカエルです
日中戦争が、なぜ、起こったのか、
よく、わからなかったんだけど、
その前に、残虐を極める通州事件なる物が、起きていたそうだ・・・。
もちろん、中国の歴史の教科書にも、
東京裁判にも、書かれていない・・・。
中国が、残虐事件に用いる写真の被害者の多くが・・・
日本人である・・・。
重慶爆撃にいたるまでの通州事件を、見て欲しい・・・。
また、重慶は、視界が、非常に悪い場所だった・・・。
通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に中国の通州において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍部隊・特務機関及び日本人居留民を襲撃し、大量虐殺した事件。日本軍は壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害され、殺害方法も猟奇的なものが多かった[1]。また朝鮮人慰安婦も殺害されている。
通州事件の生存者
通州は、北平(現:北京市)の東約12kmにあった通県(現:北京市通州区北部)の中心都市で、日本人を妻とする殷汝耕が南京政府から離脱して設立した冀東防共自治政府が置かれていた[2]。また、北京議定書に基づき、欧米列強同様に日本軍が邦人居留民保護の目的で駐留していた。
関東軍の誤爆[編集]
冀東防共自治政府保安隊の兵力は1万余で、機関銃や野砲も装備していた[1]。通州の宝通寺には中国第29軍の1個営が駐屯していた[1]。7月25日の廊坊事件翌日の26日、日本側は中国軍宝通寺部隊に対して北京への撤退を求める最後通告を行ったが、中国軍からの回答はなかったため、7月27日早朝、日本軍は攻撃を開始、正午までに宝通寺部隊は潰滅した[1][8]。この際、日本の関東軍の爆撃機が、誤って冀東保安隊幹部訓練所に爆撃し、数名の保安隊員が死亡した[1][8]。細木繁特務機関長は、冀東政府の殷汝耕長官に陳謝し、翌28日には保安隊に対して釈明し、賠償に誠意を尽くした[1][8]。
国民政府によるデマ放送[編集]
長いので、はしょろう。
冀東防共自治政府保安隊と第二十九軍の関係[編集]
事件発生[編集]
日本軍守備隊への攻撃[編集]
当時大使館付陸軍武官補佐官であった今井武夫は、
「もっともこれは単に通州だけに突発した事件ではなく、
かねて冀察第二十九軍軍長宋哲元の命令に基づき、
華北各地の保安隊がほとんど全部、
29日午前2時を期して、
一斉に蜂起し、
日本側を攻撃したものである」と述べている[14]。
日本人居留民への暴虐行為[編集]
中国保安隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し略奪、暴行、強姦などを行なった[1]。
7月30日午後通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、飲食店の旭軒では40から17~8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた[1]。日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したもの」であった[1]。
第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、
旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、
着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、
また陰部は刃物でえぐられていた[1]。
帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた[1]。
女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった[1]。
カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた[1]。
南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた[1]。
当時、同盟通信特派員の安藤利男はこの近水楼に宿泊していたが脱走に成功した[1]。
また支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、
守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた[1]。
鼻に針金を通された子供や、
片腕を切られた老婆、
腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、
ゴミばこや壕から続々発見され、
ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた[1]。
14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、
旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、
口に土砂をつめてあったり、
腹を縦に断ち割った遺体があった[1]。
東門近くの池には、首を縄で縛り、
両手を合わせて鉄線を貫き、
6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、
池は血で赤くなっていた[1]。
被害者数[編集]
在留日本人385名のうち223名が虐殺された[11]。
渡部昇一は日本軍留守部隊約110名と日本人居留民約380名が襲撃され、260名が惨殺されたとしている[13]。
陸軍省の1937年8月5日の調査では死者184、男93,女57、損傷がひどく性別不明の遺体34、生存者は134名(日本内地人77、朝鮮人57名)だった[8]。
朝鮮人慰安婦の被害者数[編集]
「慰安婦」を参照
当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』によれば、犠牲者の数は日本人104名と朝鮮人108名であり、殺害された朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦(慰安婦)にして在住未登録なりしもの」であった[8]。信夫清三郎は、朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示しているとした[8]。
その他の生存者の証言[編集]
九死に一生を得た日本人女性の発言
「日本人は殆ど殺されているでしょう。
昔シベリアの尼港事件も丁度このような恐ろしさであったろうと思います」[15]。
吉林生まれで5歳時に河北省の通県で一家の父母と妹が虐殺された者が、
中国人看護婦により自分の子であると庇われ、
九死に一生を得て日本に帰還した。
父は医院を開業していたが、
保安隊が襲う直前に遺書を書き中国人看護婦(何鳳岐:か ほうき)に預けたという[16]。
事件当時の反響[編集]
天津の支那派遣軍司令部は、陸軍省新聞班の松村秀逸少佐に新聞報道を制限するよう要請したが、松村秀逸少佐は、事件は北京近くで発生し、すでに北京の租界から全世界へ報道されているので無駄と応じた[8]。
東京日日新聞は1937年7月31日付号外で「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐」と事件を報道した。
日本共産党の創設にも関わった山川均は、
雑誌『改造』1937年(昭和12年)9月号に「支那軍の鬼畜性」という文章を発表し、
「鬼畜に等しい、残虐行為こそが支那の新聞では国民感情の昂揚に役立っているのである」
「通州事件もまた、ひとえに国民政府が抗日教育を普及し、抗日意識を植え付け、抗日感情を煽った結果である」
「支那の抗日読本にも日本人の鼻に針金を通せと書いてあるわけではない。
しかし、人間の一皮下にかくれている鬼畜を排外主義と国民感情で煽動すると、鼻の孔に針金を通させることになる」と事件の残虐性と、
中国の反日政策との関連について論評した[17]。
小林よしのりは
通州事件によって当時の日本で反中感情の世論が巻き起こり、
軍部支持に傾いたとした[18]。
また、江口圭一も
「通州事件は日本を逆上させ、暴支膺懲を加速し増幅させた。
中国は通州での非行について高すぎる代償を支払わされることとなる」と記した[7]。
冀東政府による謝罪[編集]
1937年(昭和12年)12月22日、冀東政府政務長官の池宗墨と北京大使館の森島守人参事官とが会談し、冀東政府による謝罪と慰謝金、損害賠償120万円を交付し、事件は収束した[19]。12月24日には両政府で公文交換が行われ、「冀東政府より森島参事官宛て書翰」では、事件関係者が処罰または逃亡したと説明された[20]。
東京裁判における通州事件[編集]
戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、
弁護団は「通州事件」について、
外務省の公式声明を証拠として提出しようとした。
ウェッブ裁判長によって却下されたが、証言は残された[1]。
影響等[編集]
日本人の平均的倫理観から見て尋常ならざる殺害の状況
(強姦され陰部にほうきを刺された女性の遺体、テーブルの上に並べられていた喫茶店の女子店員の生首、
斬首後死姦された女性の遺体、
腹から腸を取り出された遺体、
針金で鼻輪を通された子供など)を生存者であった『同盟通信記者「安藤利男」』が
「通州の日本人大虐殺」文藝春秋昭和30年(1955年)8月号で発表し、
日本で反中感情が強まった[1][21]。
◎近年ではこの事件に対する報道は中国では皆無である。
中国政府公式対外宣伝刊行物の『南京大虐殺写真集』の目次では『盧溝橋にて「北支事変」勃発、日本は華北を侵略する。
日本軍は第二次上海事変を起こし、上海へ出兵する。』と述べており、
この事件については一切触れられていない。
主犯の張慶餘は通州事件後は中国国民党軍に属し、最終的に中将まで昇格している[22]。
事件諸説[編集]
この事件は、中国兵の引き起こしたものである、
逃げようとして起きた事故などでは、決してない!!
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