『ドイツの追悼施設、ノイエ・ヴァッヘ、ナチスの被害者と加害者がいっしょくた』








                       ミカエルです







ウンター・デン・リンデンの大通りを、国防軍の一隊が、軍楽隊を先頭にしてこちらに近づいてくる。そう、今日は水曜日だった。毎水曜日には兵士の一隊が隊伍をととのえて、「無名兵士の廟」まで行進してくるのが、ベルリンの名物になっていた。ギリシャ神殿風の外観をもつ正面玄関には、鉄兜をかむった番兵が、まるで彫刻のように、両足をふんばったまま、微動だにせず、石段の両側に立っている。その背後には、六本のドリア式石柱が並び、その固い石造建築に、番兵の姿が、なにか強い鉄片のように、はまり込んでいる。背景に植え込まれたカスターニェンの並木とも調和して、一層この石造建築は厳然と見え、さすがにシンケルの作品らしく、あたりを払うような重みを示している。

— 谷口吉郎、『雪あかり日記』中央公論美術出版、1979年

大戦後、ウンター・デン・リンデン街を含む東ベルリンは、ソ連軍占領地区となり、1949年以降はドイツ民主共和国の一部となった。1960年、ノイエ・ヴァッヘは「ファシズムと軍国主義の犠牲者のための追悼所」として再開された。1969年、東ドイツ建国20年を記念し、永遠の火をともしたガラスのプリズムによる彫刻が中央に設置された。また建物内には無名のドイツ兵一人と無名の強制収容所犠牲者一人の遺骨が祀られた。東ドイツの国家人民軍(陸軍・フリードリヒ・エンゲルス衛兵連隊)の衛兵が立ち、戦前と同様に毎水曜日に衛兵交代式が行われた。

ドイツ再統一後の1993年にドイツ連邦政府は11月の第3日曜日を「国民哀悼の日」と定め、戦没者を追悼、遺族に対する連帯を示す日として、ノイエ・ヴァッヘを「戦争と暴力支配の犠牲者のための国立中央追悼施設」(Neue Wache als zentrale Gedenkstätte der Bundesrepublik Deutschland für die Opfer des Krieges und der Gewaltherrschaft)に改装した。第一次世界大戦以後のドイツのすべての戦没兵士、空襲の犠牲者や旧ドイツ東部領土の故郷を追われた避難民など一般市民の犠牲者をはじめ、ドイツと戦ったすべての国の軍民問わない犠牲者、ナチス・ドイツに殺されたユダヤ人やロマ民族や同性愛者などすべての人々、ナチスに抵抗して死んだ軍人や民間人なども追悼の対象となっている。また「戦争と暴力支配の犠牲者」に捧げられた碑文によれば1945年以降の全体主義の犠牲者も追悼の対象となっており、これは東ドイツ体制下の犠牲者も含むと思われる。もっとも、加害者と被害者を共に追悼することに異議を唱える者もいる。

改装なったノイエ・ヴァッヘには彫刻家ケーテ・コルヴィッツが第一次世界大戦で死んだ息子ペーターをイメージして作った1937年の作品「ピエタ(死んだ息子を抱き抱える母親)』の拡大レプリカが置かれている。この彫刻は円形の天窓の下にあり、雨風や冬の寒さにさらされ、第二次大戦で苦しんだ一般人を象徴しているという。政府は平和主義者ケーテ・コルヴィッツの遺族の意思を尊重し、本来ノイエ・ヴァッヘの前の左右に離れて建てられていたナポレオン戦争勝利の立役者シャルンホルストとビューロウ (Friedrich Wilhelm Bülow) の立像を道路を挟んだ向かい側に移設した。






1900年頃のノイエ・ヴァッヘの前にはプロイセンの将軍シャルンホルスト(右奥)とビューロウの立像(左手前)が建てられていた。台座はシンケルが設計したものである。









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