日記

2014年5月4日 アニメ・マンガ

1937年(昭和12年)7月29日午前2時過ぎに北京の東の通州 (現在は北京市通州区) で起こった「通州事件」。
 これは日中の軍事衝突が開始した7月7日の盧溝橋事件から、本格的全面戦争状態に突入した8月13日の第二次上海事変の間に連続して起こった日本人襲撃惨殺事件で最大規模のものであり、当時通州にあった冀東防共自治政府の中国人保安隊が、通州に居住していた日本人と朝鮮人の軍人と民間人230人を残虐な方法で虐殺した事件である。

 7月25日の廊坊事件、26日の広安門事件に続いて起こったこの日本人大量虐殺事件は当時日本でも大々的に報道され、それによって対中世論が一気に悪化したと、当時を知る方はそのように話している。

 まだ死体も全部は片付けられていない事件4日後の8月2日、生々しい状況下での通州事件の生存者による座談会が行われ、それが昭和12年10月号の月刊『話』に掲載されている。
 盧溝橋事件から3週間、そしてその11日後の第二次上海事変に始まる日中の8年にわたる泥沼戦争に入る直前の現地の混乱した状況下でのリアルタイムでの生の証言、そして日中が本格戦闘に入って間もない同年9月発売の月刊『話』に掲載されたこの座談会はまた、その当時のリアルタイムの臨場感を持って伝わって来るものがある。



 なおこの座談会は運良く難を逃れた無傷の生存者のものであり、『東京裁判却下 未提出弁護側資料』に見られるような現場に駆けつけた軍関係者の目撃証言の凄惨さとは違った角度であるが、歴史的事件の体験談だけでなく、事件4日後の時点での現地在住民間人が何を見聞きして知っていたかは、これは超一級の貴重な記録である。

 この記事が掲載された月刊『話』は現在の週刊文春の前身。



写真:1937年7月30日、通州事件翌日の通州。南門から北門方面を見る。 (毎日新聞社「昭和史第8巻 日中戦争勃発」より/Wikipedia) [A]


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月刊「話」昭和12年10月号
日支事変現地特ダネ特撮!!
通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会
血河屍山 (けつがしざん) [1]の現地で天人 (てんじん) [2]倶 (とも) に赦 (ゆる) さゞる暴虐を語る!!断腸[3]痛憤 (つうふん) [4]未曾有 (みぞう) [5]の座談会だ

1 血河屍山 (けつがしざん):死体が山のように積み重なり、血が多く流れて河のようになること。激しい戦いのあとのさま、2. 天人 (てんじん):天意と人事、3. 断腸 (だんちょう):はなはだしく悲しみ苦しむこと、4. 痛憤 (つうふん):大いに憤慨すること、5. 未曾有 (みぞう):未だかつてない

座談会前記
天人倶 (とも) に赦さゞる通州大惨劇の跡を追う
武島義三
 門に残る無数の弾痕


 通州惨劇の悲報が伝えられてより、憤怒と焦燥と憂慮の裡 (うち) に四日間の時日 (じじつ) が経過した八月二日、実地調査の為に派遣せられることゝなった××通州調査隊のトラックに私は便乗する事が出来た。北平 (ペーピン) 〔註・現在の北京〕通州間の一帯には未だ敗残兵が出没するとの情報があったので、調査隊の方でも万全を期して各員も拳銃なぞを装備して、まかり間違ったら、非戦闘員ながら警備兵と力を合わせて一戦をも辞せぬという悲壮な決心を眉宇 (びう) [6]に示していた。
6. 眉宇 (びう):眉の辺り
 何時 (いつ) もなら、頻繁に自動車や馬車が走り、行商人や旅人が行き交うこの街道も今日は犬の子一匹通らないで、突進するトラックの翻弄に委 (まか) せて居 (い) る。

 高梁 (こうりゃん) [7]を見ている内にふと、私は若しや、あの陰に反乱兵が伏せて居て不意打ちをしやあしないかと思った。すると何となく気になって、バンドを廻して腰の拳銃を腹の方に移して一人心構えをした。運転台のドアーの処 (ところ) に立てた日章旗は突風に靡 (なび) いてパタパタと音を立てゝ居たので、これに威圧されてか不届者は一人も飛び出さなかった。とやこうして居る内に、早くも通州の城門外に到着した。
7. 高梁 (こうりゃん):モロコシ
 調査員は皆、何回も通州に来たことがある人達ばかりだったが、城門を見ると「ひどくなっているなぁ」と嘆声 (たんせい) を洩らした。処々 (ところどころ) に砲弾で毀 (こわ) された個所があり、小銃や軽機関銃の弾痕は城壁の銃眼のあたりに集中されて無数の穴を抉 (えぐ) って居た。

 これは三十日の夕刻、保安隊反乱の報を聴き、南苑攻撃中の〇〇部隊が救援を命ぜられて到着した時、この城門を楯に頑強に抗戦した敵を撃滅した際の乱闘を物語るものである。門の傍 (かたわら) には土嚢や石塊を積んで壕が築いてあり二人の日本兵が仁王立ちとなって守備に任じていた。もう城内の治安は完全に日本軍によって維持せられているのだ。

 城門を入ると、ムッとした屍臭が鼻を突いて先 (ま) ず我々を驚かした。電線はズタズタに切れて地面に垂れていた。通りに面した人家は表戸を堅く閉され、住民は遁 (に) げ去って空になっている様だ。支那人の家は表から見ても別に損傷はなく壁に流弾の跡が残っている位だった。 人の声は少しもせず、蝉だけが我物顔にジイジイと鳴いて居た。


 程なく守備隊に着いた。砲弾に毀 (こ) わされた舎屋 (はいおく) の上に日の丸と監視兵が立っていた。何と言う惨憺 (さんたん) たる姿であろう、車から降りると我々の到着を知って生き残った同胞が憔悴と恐怖に血走った眼を泣きはらして出てきた。私はその一群を見るなり目頭が熱くなるのを止める事は出来なかった。頭や顔、手や足に包帯を巻いた婦人や子供、その包帯には未だ血潮がにじんでいた。男物の浴衣を着た妙齢 (みょうれい) [7]の婦人もいればオカッパ頭を鋏で虎刈にした女の子もいた。半島人の子供が「祝出征」と書いた日の丸を持って嬉しそうな表情をしてその中に立っていた。
8. 妙齢:年頃
 支那服のもの、洋服のもの和服のもの色々様々な服装をしていたが、流石は日本婦人だけあって髪の乱れもかき上げとっさの間にも身だしなみだけは忘れないゆかしさには感心させられた。男子は頭と両手を包帯した者が一人いたきりで後は皆、死体の収容だとか調査、仮埋葬、後かたづけなどに働きに行っているそうだ。

 その内、ある婦人が進み出てつゝましやかに「御苦労様で御座います」と挨拶をしたが我々は胸がせまって何と返答して良いやら言葉に窮した。…「なんともお気の毒で御座いました、我々はどうお慰めしてよいやらわからない位です」と分別のありそうな調査員中の一人が答えた。

 一行は思い思いの調査に取りかかった。



昭和12年の絵葉書『北支那事変』より ◆暴虐の跡◆ 上・通州南門/下・通州特務機関壁の支那軍弾痕 (yutakamaharukita) [B]


 凄絶!戦 (たたかい) の跡


被害甚大の近水楼。 (各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』/反日ワクチン) [C]
 満鉄出張所、領事館警察署、民会事務所、日本人民家、商店、飲食店、冀東 (きとう) 銀行[9]、冀東政府等を順次歩いてみたが、何処もかしこもいずれ劣らぬ乱暴狼藉の跡が歴然としていた。
9. 「冀」は河北省のこと
 私は嘗 (かつ) て満州事変の時に、新京の郊外の城市や南嶺の支那兵営を激戦の直後に行って支那兵や軍馬の死屍 (しし) が累々 (るいるい) [10]として兵舎の焼け跡に余燼 (よじん) [11]が濛々 (もうもう) として居るのを見た経験があるが、激戦の跡という感じは、どちらも同じだが、むごたらしさと言う点から見れば数百倍もこっちがひどいと思った。
10. 累々 (るいるい):あたり一面に重なり合ってたくさんにあるさま、11. 余塵:くすぶり

 日本人の家屋は必ず見る影もなく荒らされて居り、破壊された家屋を見て、あそこもやられたなと思うと必ずそれが日本人の家屋なのである。死臭がするなと思うと道路といわず、溝といわず死屍 (しし) が横たわっていて、それが日本人であると必ず正視の出来ない程、残虐な凶刃 (きょうじん) [12]が振るわれているのだ。
12. 凶刃:人殺しの刃物
 最後に近水楼 (きんすいろう) に行ってみた。近水楼はこの前、来たときに一泊したことがあり、其 (そ) の時天津 (てんしん) にも北平 (ペーピン) にもこんないい旅館はないねぇ、天津の芙蓉 (ふよう) 館や北平の扶桑 (ふそう) 館の方が建物や設備はいいかも知れないが、とてもこの窓の眺めはない…と誉 (ほ) めて給仕にきた女中を喜ばせたことがあったが、それ程景色のいい地点にあるのである。

 きれいな蓮池に囲まれ、玄関の前と後の方向に池を亙 (わた) る通路があって旅館の廻りの樹木は緑滴 (したた) るばかりであった。「近水楼はひどいぞ」と言われて、予 (あらかじ) め覚悟はして入ったがあまりの残忍な状態に変わり果てているので思わず悪寒と戦慄を感じた。

 玄関からそれに続く広間などは滅茶苦茶で血沫 (けつまつ) は飛び、どす黒い血潮は餅を置いたように厚みを持って床の上に固まっていた。持ち出した衣類や器具のこわれがそこら一面に散っていて客だか家の人だか判らない屍体が六つ、一カ所に並べられていた。私は死屍を見る毎に合掌して懇 (ねんご) ろに霊を慰めることにしてきたが今日はそれを何回やっただろう。数え切れないほどである。私は二階に泊まった事があるので土足のまま直ぐに上がってみたが戸障子から襖 (ふすま) 、畳まではがされてよくもこれまで荒らしたものだと思われる程だった。


近水楼の蓮池は現在は通州西海子公園。 (2008, uYYu/Panoramio) [D]
 階下に降りて来ると料理場に続いた女中部屋を覗いていた五~六人の人達が…「あッ!ひどいなぁ」…と嘆声 (たんせい) を洩らして後ずさりをしたので私も肩越しに見ると、血液が一時に逆流するかと思われる程、愕然とした。そこには六~七人の女中が、頭といわず、顔、首、胸、手足、殊 (こと) に腹部より下に対しての残忍極まる鬼畜もなさざる虐行を敢えてしてあった。

 夜になってから〇〇隊長の許しを得て一室を提供してもらって生き残った人々の生々しい死線突破の体験談を聴くことにした。

 私は北平から来た〇〇の東氏、天津から来た××の吉村氏と相談して予 (あらかじ) め居留民の内 (うち) の分別のありそうな人を選んで夕食後にすみませんが色々お話を承らせて頂きたいのですが…とかれこれ十名位に頼んで歩いた。夜の幕が全く降りて不気味な闇に包まれる頃、暗い洋灯 (ランプ) を中心にして、集まったのは私と東、吉村の三人と五名の生存者だった。内の一人は半島人で包帯姿も痛々しかった。婦人の方にも一人二人出て頂くつもりでいたが傷心に身も心も疲れて休んでいられたので遠慮することにした。

 銃痕の散らばった壁や血沫の飛ぶドアーを背景にした、激戦の跡の一室で兵隊さんの食事の卓を囲んで座談会をやるのである。これ程、凄絶味のある座談会は恐らく前代未聞であろう。






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…出席者…
北京よりの調査員 東 達人
天津よりの調査員 吉村 四郎
生存者 森脇 高英、竹原 重夫、廣田 利雄、大橋松一郎、朴 永良
本誌特別特派記者 武島 義三

 
デマ宣伝に踊らされた保安隊


通州事件の生存者。1937年8月。 (毎日新聞社「昭和史第8巻 日中戦争勃発」より/Wikipedia) [E]
記者 お集まり下さいまして有難うございます。未だ昂奮 (こうふん) からさめぬ精神的にも肉体的にも疲労困憊 (こんぱい) [13]の極 (きわみ) に居られる皆様から貴重な時間を割いて戴きまして誠に有難う御座います。本日当地に参りまして諸方面よりの調査隊や救援隊の方々と一緒に惨劇の跡を見ましたが、何と申し上げてよいやら言葉を知りません。見れば見るほど、その暴虐振りに憤怒を感じ、切歯扼腕 (せっしやくわん) [14]するばかりです。

13. 困憊:疲れて動けない事、14. 切歯扼腕 (せっしやくわん):歯ぎしりしたり自分の腕を握り締めて、ひどく残念がったり怒ったりすること
 私は三十日の正午頃はじめて北平の〇〇で通州がやられたという報を聴きましたが此 (こ) んな時にはデマが多いので、またデマではないかと思ったのです。

 処 (ところ) が時刻が経つに随 (したが) って真実だと言うことになり、通信機関も破壊せられていて、真相が充分判らないので本日参った次第であります。

 今夜は皆様より詳しくお話を承って、よくその真相を伝え一日も早く冀東地区を蔽 (おお) った暗雲を一掃して再び輝かしい太陽を招きたいと考えて居ります。僭越ですが私が進行係を受け持たせて頂きまして話を進めたいと存じます。先ず最初にお伺いしたいのは、北支事変勃発当初、この冀東地区にどんな反響があったかという事であります。



森脇 廬溝橋事件勃発の時には別に関心は持たなかったようですが、次々と起こった北寧、平関両鉄道沿線の戦闘に対してはやはり動揺していた様であります。

 南京系の新聞が相当、入り込んでいますし、流言 (りゅうげん) [15]や誹語 (ひご) [16]が盛んの様でしたから、不安がって居た事と思います。
15. 流言:デマ、16. 誹語 (ひご):そしり
竹原 然し冀東地区内に居る自分らは大丈夫だと言う自信は十分あった事は確かです。其 (そ) の証拠に事変が起こってからでも公園に夕涼みの散歩をする者の数は多く、白河の岸で雲雀を鳴かせている人達は平素と変わりありませんでした。
 支那人は多少でも自分らの生命や財産を脅かされる懸念のある時は一刻も愚図々々 (ぐずぐず) しないで何処かへ遁 (に) げて行きますよ。



記者 通州事件の勃発する前後の様子や保安隊の蜂起する迄の様子をお話下さい。

廣田 我が香月 (かつき) 〔清司〕司令官が宋哲元宛に通告した最後的な撤収要求が、支那側にさえ誠意があったならば二十七日正午に履行せられる筈なのですが、戦時行動を拡大するばかりで少しも履行の様子がないので、我が軍の南苑攻撃が開始されたのです。

 其 (そ) の為に通州門外に駐屯して居た約一個大隊の二十九軍の一部の不穏な動揺の色ありとの情報があったので、二十七日の夜から二十八日の払暁 (ふつぎょう) [17]にかけて、日本軍が空陸呼応して攻撃し、終 (つい) に敵を沈黙させて全員の武装解除をしたのです。この武装解除の時には通州保安隊の一部も駆けつけてその手助けをした位です。この時から保安隊には少し動揺の様子があったのです。
17. 払暁 (ふつぎょう):明け方
森脇 これは僕の考えですが保安隊には相当前から根強く中央よりの指令に働いてる煽動分子が入り込んでいたと思います。少なくも保安隊の幹部は完全にその指示に依 (よ) って行動したと思っています。中央は新聞やラジオによって宣伝をやったのです。

 即ち…蒋介石は日本軍に対し二十四時間以内に北支より撤退せよ、然 (しか) らざれば三百台の飛行機を以 (もっ) て、大挙、北平、天津を空爆するぞと通告せり…とか、支那軍は至る処 (ところ) に大勝を博して日軍を潰滅し北平、天津、豊台は完全に支那軍が占拠し、廊坊は奪還せり…とか支那軍飛行機は、満州国を襲撃しシンヨウ(奉天)市内は火災を生じ錦州も同様にて、目下暴動反乱が蜂起せり…とか、蒋介石は目下鄭州にあり全軍の指揮に当たっていると言う様なのですが、それで保安隊の幹部連も、そら中央がやった、我々も愚図々々 (ぐずぐず) しては居られないと言うので二十七日か八日に一同を集めてその訓示をしたそうです。南京では二十九日、冀東保安隊が反乱を決行するというので北支一斉に反撃の密令を出したので、通州と同様に天津、豊台、廊坊、順義等に逆襲があったのです。

 ところが死に物狂いになってやってみたけれども少数の通州日本軍が意外に頑強で、これをやっつけるのを苦心している内に、援軍が到着するし、空襲はされる、危ないと思ったのでその鬱憤を無力の居留民の虐殺で果たし、行きがけの駄賃に金目のものを掠奪してしまったのです。



記者 当時、通州にはどの位の同胞がいたのですか。

大橋 正確な数字が判らないのです。民会や警察の名簿に載っていたのは内地人男八十名女二十二名、半島人男百四名、女七十八名、計二百九十五名とかいうことですが、北平からわざわざ避難して来た者も四、五十名居る様ですし、名簿に載ってない旅行や視察に来た人もいますから困るのです。ですから、三百八十名位の見当なのです。

竹原 それも何処か一廓 (いっかく) [18]を定めて日本人の地帯でも作って其処 (そこ) にでもいたならばまだしも、これだけが城内各方面にちりぢりばらばらに住んでいたのですから、尚 (なお) 、酷いのです。それに外部からの匪賊 (ひぞく) [19]の襲撃ででもあったならこれほどではなかったのですが、平素、警備していて事情のよく判っている保安隊がやったのですから手がつけられません。保安隊員は各戸 (かっこ) の財政的状態迄 (まで) あらまし[20]知っていますから、こんな災禍 (さいか) を見たのです。
18. 一廓 (いっかく):一つの囲いの中の地域、19. 匪賊:集団で略奪・殺人・強盗などを行う賊、20. あらまし:大体、おおよそ、あらかた
記者 今日迄 (まで) の生存者、屍体発見はどの位あったのですか。

竹原 皆で百三十名位じゃあないですか。屍体は百二十体位ですから、合計二百五十。

記者 すると未だ百二三十の人々が生死不明ということになりますね。

大橋 これが大変なのですよ。氏名がわかっている人で屍体の発見されないのや、屍体があっても氏名や身許が判らないのもあります。判明者は荼毘に付していきますが、判らないのは腐敗しますから仮埋葬します。


破壊された通州日本居留民会事務所。本記事中では「民会事務所」と表記。(騰訊公司) [F]



 日本人を皆殺しにしろ!!

森脇 僕は六月末迄、今度殺された〇〇君の塀の中の一間を借りて厄介になっていたのですが、大連に置いてあった家内を呼び寄せることになってので、一間では不便だと言うので〇〇君のボーイに頼んでおいた所が〇〇大街粮桟 (だいがいリヤンツアン) (雑穀問屋)の院内にある手頃な三間房子 (さんげんぼうし) (一間幅の部屋三つ)を探してくれたので寝室兼居間、と台所と風呂、もう一つを応接間兼書斎としたのです。そして家内を呼んだ処 (ところ) が大連と違って日本人が近所にいないのと買物に行くのが遠くて困ると愚痴るので涼しくなったら又、いゝ処 (ところ) に移ろうと言っていたのです。

 僕の使っていたボーイはこの家を探してくれた〇〇君のボーイの弟で十七歳で性質もよく何でも安心してさせることの出来る子供でした。その兄弟は二人でやはりこの塀の中の一室を借りて棲 (す) んでいたのですが、名前は劉 (りゅう) ですから兄の方を大劉、弟の方を小劉と呼んでいました。



 あの日、パンパンと銃声を聴いたのは三時十五分頃だったのですが、寝間の背面に窓を作って置くのは不用心だと思ってつぶして了 (し) まったので、さっぱり様子が判らなかったのです。其処 (そこ) で起きると直 (す) ぐ服装を整えて小劉を呼んで様子を見て来いと言ってやったのです。妻も吃驚 (びっくり) して着物を来て蒲団をたゝんだりしていましたが、僕は二十九軍が襲撃して来たのを保安隊が守護隊と協力して防護に当っているのだなと思ったのです。

 妻に色々と注意の言葉を与えていると小劉が血相を変えて大変です保安隊が“日本人を殺せ”と言って暴れ狂っています。〇街の角の韓国人(半島人)の家に侵入して皆殺しにした、と言うのです。それで僕もこれは大変だ保安隊の叛乱 (むほん) ではうかうか出来ないと思って粮桟の帳房(帳場)に行って電話をかけようとすると電流が来ていないのです。故障か切断したのか判らないが電話で連絡がとれなければ自分で避難場所を探がさなければならないと思って、自分の家にもどって妻に持って出る大切なものの用意をいいつけていると小劉は屋根から日の丸を降ろして来たのです。日の丸を立てゝいてはいけないというのです。よく気がつくでしょう。

 すると大劉が呼吸 (いき) せききって帰って来て『もう街は戦争の様だ。日本人の家は片っぱしから保安隊が乱入して誰彼の見極めなく皆殺している。〇〇さんのご主人も奥さんも子供さんも酷い殺され方をしています。それから裏の〇〇さん、××さん、△△さんの家も全部やられて日本人は全滅です』--愈々 (いよいよ) 本当だなの覚悟をしていると小劉と粮桟 (リヤンツアン) の番頭が来て『この支那服を着て、一番隅の倉庫を開けてあげるから、かくれていなさい』--と言うので万策尽きて困っていた時なのですからすぐその話にのって、大劉小劉にフトンや大事な物の包 (つつみ) を倉庫に運ばせました。

 そして若 (も) しこの中にいるのを密告でもされるといけないと言うので粮桟 (リヤンツアン) の男達四人と大劉小劉に五円宛 (ずつ) 、番頭に十円の札をくれてやりました。倉庫には三、四十坪もあり、天井も高く一杯に雑穀の俵が積んでありました。その隅にフトンを布 (し) いて落ち着いたのです。銃声は益々劇 (はげ) しく、砲声さえ交ざって聞こえるので一大事が突発したなと思いました。

 倉庫の背面には上の方に明りとりの小さな窓が一つあるきりでとても暗いのです。道路の方を見てやろうと思って俵を下から段々積み上げて台をこしらえて、それに上って窓から外を見ました。すると西門の方向に黒煙が二条 (ふたすじ) 昇っているのです。守護隊もやられているなと思いました。すると下の道路を保安隊が十五、六名で竜刀や銃床で叩きながら何処やらへ連れて行くのです。「走罷 (ツォオバ) (歩ケッ)」「起来罷 (チーライバ) (起きろ)」と罵声怒叫して引き立てゝいます。それに女や子供の泣き声が聴こえてまるでこの世の地獄です。

 すると粮桟 (リヤンツアン) の門を叩き始めたのですが誰も出ないので保安隊員が登って内側に入りとうとう開けました。どやどやと二、三十名もが浸入 (はい) って来る様です。そうかと思うと直ぐ銃声がしました。僕は直ぐ妻に、万一の場合はこの拳銃でお前を撃ち殺ろし、自分も死ぬから、と言って決心をさせたのです。賊徒 (ぞくと) は僕の家に侵入して器物をこわしたり、叩いて我々の姿を探しているのです。

 その時、大変なことにはこの倉庫に鍵がかかっていないのです。いかんと思うと匍 (は) う様にして麻袋の穀物を重ねて体の見えない様にして妻と二人で中から渾身の力をこめておさえたのです。この戸は力のある男ならば一人でもいゝが普通二人掛かりで開閉する様な大戸なのです。散々荒らした賊徒は今度、倉庫に来たのです。二、三人が戸の中央にある金網と鉄柵の間から覗き込んでいました。僕ら夫婦はこゝを最後とばかりにおさえたのです。外の奴等 (やつら) の呼吸は蒸気のように劇 (はげ) しくハッハッと吐き込んでいました。ところが覗き込んでもいないと思ってか直ぐ立ち去って了いました。この時の嬉しさは何とも言えませんでした。そして絶えず銃声におどかされ乍 (なが) ら恐怖の中にも必ず来るであろう、救護の手を待っていました。



 そのまゝ夜となり、持ち込んだ懐中電灯をつけてパイナップルの缶詰で飢 (うえ) を凌 (しの) ぎ夜明を待ちました。そして翌 (あく) る朝、銃声鎮 (しずま) った頃に道路の彼方に日本語と足音をきいたのです。その時、二人は愕然として僕は猿の様に俵の山を馳け登りましたが、既に過ぎ去っていて判りませんでした。それから降りて、日本軍が来たに違いないと思って倉庫にあった棒切れに小劉の降ろした日の丸をつけて再び窓の所に出て硝子を破り、金網に棒の通る位の穴をあけて時機が来るのを待ちました。この時位待つということの苦しさを味わった事はありません。

 それから二時間位して日本兵が一個分隊位通るのを見て力一杯旗を出し、日本人だ万歳ッ、日本人だッ、と腹一杯叫びました。これでやっと救われたのです。外に出て太陽を見た時は実に嬉しかったです。こんなわけですから外 (ほか) の方々の様に兜弾や兜刃の下はくぐらなかったのです。守護隊に収容されてから意外な大事件になっているのを知って愕然としました。


昭和12年の絵葉書『北支那事変』より ◆戦捷を捧げて◆ 上・敵塹壕の一部/左・通州城頭に立つ皇軍の歩哨/右・通州日本特務機関の正門 (yutakamaharukita) [G]



 糞壷の中にかくれて助かる

竹原 僕の家は〇〇館と背中合わせの支房家屋で塀の中には僕が一人だけ日本人なのです。三間房子を借りていましたが、一番塀よりの部屋を便所にしていたのです。甚 (はなは) だ、尾籠 (びろう) な話ですが僕は痔が悪いので便所が永く、この塀の中に共同用のものがあるのですが、支那人が使って不潔なのでわざわざ一と部屋を掘り下げて、縦五尺幅三尺深さ四尺位の穴を掘って三年位、かえなくてもいい様な大きなのをこしらえこれに枕木を左右日本ずつ並らべて、中央に五寸くらいのあきを作って用を便ずる様な作りになっていたのです。部屋より便所の方が奇麗だと言われた位です。銃声を聴いて眼を醒ましたとき、裏の〇〇館に女の悲鳴や断末魔の叫びが聴こえ、器物を破壊する音が日本人は皆殺 (みなごろし) だという言葉の間から洩れるのです。二十九軍だなとすぐ思いました。保安隊なぞとは少しも思わなかったです。

 遁 (に) げなくてはいけないと思いましたがさて何処に遁げて良いやら判らないのです。速く速くと自分をせき立てましたがどうも適当な場所がないのです。するとふと僕の頭をかすめたのは、僕の友人が嘗 (かつ) て満州の吉敦 (きつとん) 線で匪賊 (ひぞく) の襲撃に遭って列車を転覆されたのです。その時、便所に遁 (に) げて助かったことを思い出しましたので、外へ出るのは危険だと思って直ぐポプリンのパジャマを着たまゝ拳銃と蟇口 (がまぐち) を持って便所に行き、枕木を二本あげてさっと中に入り足場をよくしてそっとしゃがみました。こゝでちょっとお断りしておきますが、クソ壷ではありますが未だ三ヶ月にしかならないのです。人間一人の三ヶ月分の排泄量をこんな大きな穴に入れてあるのですから、足をクソの中に浸ける様な事はないのです。

 すると直ぐ十五、六名位の暴漢が物凄い叫びをあげて塀の中に這入って来ました。「日本人在那児」 (イベンレンツァイナール) (日本人は何処にいるか) と言うのです。誰も答えません。すると誰かゞ知っているらしく僕の家に飛び込んでガラガラ家財道具をひっくりかえしながら探していましたが、そのうち外に出て他の五軒の支那人の家を起して一々中に入って調べていました。「那児去了摩」 (アールチュイラマ) (何処へ行ったか) と聴くと「不知道」 (プチドウ) (知らん) と答えるばかりです。その内に便所のドアーを開けましたが「厠房子」 (マオファンズ) (便所だ) といって中をさぐりもしないで散々目ぼしいものをあさって出て行きました。

 やれやれ助かった、と思 (おもう) と、「失了火了」 (シイラホワラ) (火事だッ) と言うのです。この声に塀の中の支那人たちも隣の火事を黙っていられないとばかりに夫々 (それぞれ) の家から水を持って来てジャジャかけていました。暴漢が押しこんだとき、机の上の洋灯 (ランプ) を倒したのでしょう。火事も消えたのでじっとしていると今度は軽機関銃の音が遠くに激しく聞こえるのです。このまゝクソ壷の中にいたのでは、外部との連絡はとれないしこのまゝ死んではウンの尽きだ(笑声)と思って、何処か遁 (のが) れる場所を見つけたのです。すると僕らの塀と隣の支那家屋との間に幅二尺位の隙があるのです。何時か塀の中でキャッチボールをした時に、ボールを探しに這入 (はい) ったことがあるのです。

 そうだ、あそこがいゝと思うと、外部の様子をうかがって、そっと枕木を押し上げて飛び出し、外に出ていきなり足場もない塀に爪を立てゝかけ登り無事中に入りました。こゝなら大丈夫だと思って高梁 (こうりゃん) の茎なぞを敷いて坐ったのです。今度は大分楽です。体をのばすことも出来れば呼吸も充分に出来るのですから、銃弾の音はなおしきりだったのですが、いくらか心にゆとりが出来て拳銃を出し弾丸の勘定をしたりしました。挿弾子 (そうだんし) に八個あったのです。いざという時は七発撃ちまくって残りの一発を自分の頭に撃ち込んでやるんだと独言 (ひとりごと) をいいました。


 それから何時間たったか判りませんが空に飛行機の爆音をきゝました。二十九軍が襲撃して中央軍の爆撃機の空爆かと思ったのです。ところが何んと嬉しいことに日の丸をくっきり描いた日本軍の飛行機です。僕はその時声そ立てられなかったが二、三回撥ね上りました。大丈夫助かる、とその時初めて思いました。そうなると急に命が惜しくなってキチンと地上に端座 (たんざ) [21]して般若心経を口ずさみました。ところがあとの飛行機も来ないのです。だんだん空は暗くなり夜の帷 (とば) りが降りて来ると西門方面の銃声は一層激 (はげ) しくなりました。今夜は此処 (ここ) で籠城だと思うととても寂しくなって機械的に般若心経を暗誦 (あんしょう) [22]しました。何百回繰り返したか判りません。
21. 端座 (たんざ):きちんと座る事、正座、22. 暗誦:そらで覚えていることを口に出してとなえること
 真暗になってから、遁 (のが) れられたらこの機にと思って塀を昇り隣の屋根を匍 (は) って二棟ほど先 (さ) きに進んで見ましたが、闇の中にも〇〇君の家の狼藉 (ろうぜき) [22]の跡と転がっている屍体が見える様なのです。そう思うと堪 (たま) らなく、体にふるえが来て、拳銃を握って匍 (は) う手が屋根にあたってガタガタと小さい音をたてるのです。それから急いで又、もとの巣にもどってほっとしました。やられたな、血の臭いがした。夏の夜は短いとは誰もいうがそんな事は嘘だ。この時程、夜の長いことはなかった。
22. 狼藉:乱暴
 夜があけきってから銃声は時々する位にとだえた時〇〇館の方に戛々 (かつかつ) という足音と『こゝにもやられている』という力強い凛 (りん) とした軍人らしい日本語が聞こえました。そら、日本軍だと思うと反射的に塀を馳け上って屋根を走り〇〇の庭にとび降りて救われたのです。僕の場合は襲来が速かったから森脇さんの様に奥さんを持っていたらとても駄目だったですね。



森脇 今の竹原君の便所なぞは計画的にやったのでなく、不意に気がついたらしいですが、いい思い付きだったんですね。それが倉庫などだったら、何かいゝ物が入っていないかと思ってあけて見るのが人情ですが、便所だと中身がわかりきってますからね。

吉村 廣田さんも大橋さんも支那人の家に逃げこんだ組ですね。


通州城の城壁。西門を南方から映したものと見られる。 (1925か34?)(Zuo Quan) [H]


 嗚呼名も知れぬ義人[23]の死
23. 義人 (ぎじん):義に対して忠実な人。自分を捨てて、正義に殉ずる人
廣田 前夜大橋君が僕の処 (ところ) に来て遅く迄 (まで) 北支事変の話をしたり、将棋をさしたりして、とうとう僕の部屋に寝たのです。ところが二人とも木綿の支那服を着たままグゥグゥと高鼾 (たかいびき) をかいていたので余程過 (た) ってから眼が醒めたのです。外は未だ小暗かったです。庭に寝ていた子牛大の犬は銃声に愕 (おどろ) いたのか柄 (がら) にもなく吠えるのです。二人は至って呑気にかまえて支那靴をひっかけたまゝ門の処に行ってみたのです。

 すると二、三百名の保安隊が暗灰色 (あんかいしょく) の学生服を着た学生風の一隊と凄い形相をして西の方へ行くのです。その学生隊の人達も武器を持っていて、持たない者は棒きれをさげていました。「敵襲で保安隊の出動だ、送ろう」と言って門を開けようとすると大橋君が「よせよせ」と言って止めるのです。「大丈夫だ」と言ってその手を振り切って出ようとすると、「子供は許してくださいッ、小輩不行 (ショウハイプシン) 」と狂気のように叫ぶ日本婦人が二、三人の保安隊員に引っ張られながら行くのです。日本語と支那語を交ぜてしきりに懇願 (こんがん) しているのです。

 これを見ると僕の全身の血が湧き立つ程、義憤 (ぎふん) [24]を感じたので拳を握って飛び出そうとすると、大橋君は「叛乱 (むほん) が起こったのだ」「どうして」「日本人がやられてるじゃあないか」…そうかと思っていると、急に又足音が聴こえてきたので呼吸をころしていると僕らの門が開くのです。二人はそっとそのまま門の影にかくれました。幅一間以上あるので楽々とかくれられたのです。すると七、八人の保安隊員が矢庭 (やにわ) [25]に二人の部屋に押し込んで盛んに我々を探すらしいのです。
24. 義憤 (ぎふん):道義に外れた事に対して感ずる憤り、25. 矢庭に:突然、いきなり
 「大変だ、やはり叛乱だ」と思わずぞくっとしていよいよ戸にかくれる気がしました。すると散々に荒らして我々がいないので、そのまま出て行きましたが、大橋君の部屋から日本刀を、僕の部屋から南州(注・西郷隆盛)の額を持ち去られたのは残念だったです。

 これで危機一髪の難関は遁 (のが) れたのですが、支那人の家には少しも入らないということが判ったので、門寄りの一番端の洋車夫 (ようしゃふ) [26]の王 (ワン) の家に遁げこみました。銃火は益々激しく砲弾の炸裂する音響は屋根をも動くかと思われた。その内に又、道路にドヤドヤと足音がした。すると鋭い声で「日本人はかくれろ!日本人はかくれろ!」と叫ぶのが聴こえました。叛徒 (はんと) [27]に拉致されながら自分の身を省みず他人に注意しているのだ。
26. :車夫 (しゃふ):車引き、27. 叛徒 (はんと):むほん人たち。逆徒
大橋 そうだ、あの声は今でも耳に残っているね、普通なら「助けてくれ」と叫ぶ処 (ところ) なんだがあれが日本人の真面目なんだね。内地の人によく伝えてください。どこの人だか判らないが偉い男でしたね。

廣田 それから「静かにしろ、だまれ」という支那語の叱声が聞こえたが尚も「日本人はかくれろ」…と言うものだからズドンと銃声がしたのです。多分殺されたのでしょう。

大橋 声をきいただけですが惜しい男を殺しましたね。

廣田 あの時、王は震えていたが、蒲団から顔を出して「あんた達は顔が白いから、若 (も) し此処 (ここ) へ土匪 (どひ) [27]が来たときに大人 (うし) [28]と思われて危ないから、土間の隅にある釜のススを塗れ」と言われて二人はあわてて塗りましたっけね。
27. 土匪 (どひ):土着民で武装して集団となって略奪・暴行をする賊、28. 大人 (うし):貴人・富者
大橋 全く今じゃ笑っているけれどあの時は真剣だったですよ。

 それからこゝに頑張り通して、王の食いあましの焼餅 (シャオピン) をかじって、夜を明かしたのですが、銃声のやんだ機を見て特務機関か守備隊に行こうと思って飛び出しましたが「日本人はかくれろ」という言葉が耳に残っていたので無謀なことを慎んで翌日助けられたのです。



記者 どの方も生死の紙一重の様な危機を突破せられたのですね。ありがとうございました。

 亡くなった同胞の為に黙祷をさゝげましょう。

菊池信平[編]. 『昭和十二年の「週刊文春」』. 文春新書, 2007. 159-177.
[フリガナ・脚註=岩谷] (写真はクレジットのあるものを除きあきら氏提供 。脚註はエキサイト辞書国語辞典などを参考)



 当時語られ当時出版されたこの座談会を見ると、当時現場にいた人々がどういう暮らしをしどういう価値観を持ち、何を考え、どういう体験をしたかがリアリティを持って伝わって来る。



座談会初出:あきら氏のミクシィ日記 2007年7月12-14




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Googleマップで見る現代の通州。通州城の濠は道路になり、城壁や城門は痕跡すら確認出来ない。


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