『乃木将軍を、アタシ達は、名誉に思っています☆』
2014年5月26日 アニメ・マンガ『乃木将軍を、アタシ達は、名誉に思っています☆』
ミカエルです。
旅順を児玉が、攻略したというのは、
司馬遼太郎の作った物語に過ぎなかった。
機関砲を持つ要塞を、攻略するのは、至難の技だった。
弾も送って来ない大本営と、交錯する命令の元に、実によく、戦った乃木将軍。
坂の上の雲では、陸軍の戦いぶりが、過小評価されている…。
相手は、絶大なるロシア陸軍。
それまで、有色人種が、白人の勝利を、納めた事など、一度も無かったのだ。
そして、武人の名誉を、重んじた乃木将軍…。
韓国と、中国ほど武人の名誉を大切にしない国は無い…。
乃木はこの戦いで正攻法を行いロシアの永久要塞を攻略した。第1回目の攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請に半ば押される形で強襲作戦となり(当時の軍装備、編成で要塞を早期攻略するには犠牲覚悟の強襲法しかなかった)、乃木の指揮について例えば歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べたほどである。乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となった[70]。
乃木は補充のできない要塞を正攻法で自軍の損害を抑えつつ攻撃し相手を消耗させる事で勝利出来る事を確信していたが、戦車も航空機もない時代に機関砲を配備した永久要塞に対する攻撃は極めて困難であった。第3軍は満州軍司令部や大本営に度々砲弾を要求したが、十分な補給がおこなわれる事はついになかった。旅順攻撃を開始した当時、旅順要塞は早期に陥落すると楽観視していた陸軍内部においては、乃木に対する非難が高まり、一時、乃木を第3軍司令官から更迭する案も浮上した。しかし、明治天皇が御前会議において乃木更迭に否定的な見解を示したことから、乃木の続投が決まったといわれている[71]。また大本営は度々第三軍に対して直属の上級司令部である満州軍司令部と異なる指示を出し、混乱させた。特に203高地を攻略の主攻にするかについては第3軍の他にも軍が所属する満州軍の大山巌総司令や児玉源太郎参謀長も反対していた。それでも大本営は海軍側に催促された事もあり、満州軍の指導と反する指示を越権して第3軍にし、乃木達を混乱させた[72]。
乃木に対する批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、乃木邸に向かって大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2,400通も届けられた[73]。
11月30日、第3回総攻撃に参加していた次男・保典が戦死した。これを知った乃木は、「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」と述べたという[74]。長男と次男を相次いで亡くした乃木に日本国民は大変同情し、戦後に「一人息子と泣いてはすまぬ、二人なくした人もある」という俗謡が流行するほどだった[75]。
明治38年(1905年)1月1日、要塞正面が突破され、予備兵力も無くなり抵抗も不可能になった旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ(ステッセルとも表記される)は、乃木に対し、降伏書を送付し、同月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落した[76]。
なお、この戦いに関する異説として旅順に来た児玉源太郎が指揮をとって203高地を攻略したというものがある。この異説は司馬遼太郎の小説が初出で世に広まり、以降の日露戦争関連本でも載せられる程となったが司馬作品で発表される以前はその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述も一切存在しない[77]。203高地は児玉が来る前に1度は陥落するほど弱体化しており再奪還は時間の問題であった。
また、この戦いで繰り広げられた塹壕陣地戦は後の第一次世界大戦の西部戦線を先取りするような戦いとなり、鉄条網で周囲を覆った塹壕陣地を機関銃や連装銃で装備した部隊が守備するといかに突破が困難になるかを世界に知らしめた。他にも、塹壕への砲撃はそれほど相手を消耗させないことや予備兵力を消耗させない限り敵陣全体を突破するのは不可能であることなど、第一次世界大戦でも言われた戦訓が多くあった。しかし西洋列強はこの戦いを「極東の僻地で行われた特殊なケース」として研究せずに対策を怠り、第一次世界大戦で大消耗戦となってしまった[78] 。
水師営の会見[編集]
水師営会見 中央二人が乃木将軍とステッセリ将軍(後列左4人目松平英夫)
旅順要塞を陥落させた後の明治38年(1905年)1月5日、乃木は要塞司令官ステッセリと会見した。この会見は水師営において行われたので、水師営の会見といわれる。会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセリが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう要請した[79]。
これを受けて、乃木は、ステッセリに対し、極めて紳士的に接した。すなわち、通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木はステッセリに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた[80]。また、乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させずに、ステッセリらロシア軍人の武人としての名誉を重んじた[81]。
こうした乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛された[82]。 また、この会見を題材とした唱歌『水師営の会見』が作られ、日本の国定教科書に掲載された[83]。
乃木は、1月13日に旅順要塞に入城し、翌14日、旅順攻囲戦において戦死した将兵の弔いとして招魂祭を挙行し、自ら起草した祭文を涙ながらに奉読した。その姿は、日本語が分からない観戦武官及び従軍記者らをも感動させ、彼らは祭文の意訳を求めた[84]。
奉天会戦[編集]
詳細は「奉天会戦」を参照
乃木率いる第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦にも参加した。第3軍は、西から大きく回り込んでロシア軍の右側背後を突くことを命じられ、猛進した。ロシア軍の総司令官であるアレクセイ・クロパトキンは、第3軍を日本軍の主力であると判断していた。当初は東端の鴨緑江軍を第3軍と誤解して兵力を振り分けていた。旅順での激闘での消耗が回復していない第3軍は進軍開始直後は予定通り進撃していた。しかし西端こそが第3軍である事に気付いたクロパキトンが兵力の移動を行い第3軍迎撃へ投入、激戦となった。
第3軍の進軍如何によって勝敗が決すると考えられていたので、総参謀長・児玉源太郎は、第3軍参謀長・松永正敏に対し、「乃木に猛進を伝えよ」と述べた。児玉に言われるまでもなく進撃を続けていた乃木は激怒し、第3軍の司令部を最前線にまで突出させたが、幕僚の必死の説得により、司令部は元の位置に戻された[85]。
その後も第3軍はロシア軍からの熾烈な攻撃を受け続けたが、進撃を止めなかった。こういった第3軍の奮戦によって、クロパトキンは第3軍の兵力を実際の2倍以上であると誤解し、また、第3軍によって退路を断たれることを憂慮して、日本軍に対して優勢を保っていた東部及び中央部のロシア軍を退却させた。これを機に形勢は徐々に日本軍へと傾き、日本軍は奉天会戦に勝利した[85][86]。
アメリカ人従軍記者スタンレー・ウォッシュバンは、「奉天会戦における日本軍の勝利は、乃木と第3軍によって可能になった」と述べた[87]。
凱旋[編集]
乃木は、日露戦争の休戦を奉天の北方に位置する法庫門において迎えた。この際、参謀の津野田是重に対し、日露講和の行く末について、戦争が長引くことは日本にとってのみ不利であること、賠償金はとれないであろうこと及び樺太すべてを割譲させることは困難であること等を述べている[88]。
明治38年(1905年)12月29日、乃木は法庫門を出発し、帰国の途についた。明治39年(1906年)1月1日から5日間、旅順に滞在して砲台を巡視した後、大連を出航し、同月10日には宇品に、14日は東京・新橋駅に凱旋した[89]。
乃木は、日露戦争以前から国民に知られていたが[90]、「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語した[91]旅順要塞の攻略が極めて困難であったことや、二人の子息を亡くしたことから、乃木の凱旋は他の諸将とは異なる大歓迎となり、新聞も帰国する乃木の一挙手一投足を報じた[92]。乃木を歓迎するムードは高まっていたが、対する乃木は、日本へ帰国する直前、旅順攻囲戦において多数の将兵を戦死させた自責の念から、戦死して骨となって帰国したい、日本へ帰りたくない、守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい、箕でも笠でもかぶって帰りたい、などと述べ、凱旋した後に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断った[93]。
凱旋後、乃木は明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読した。復命書の内容は、第3軍が作戦目的を達成出来たのは天皇の御稜威、上級司令部の作戦指導および友軍の協力によるものとし、また将兵の忠勇義烈を讃え戦没者を悼む内容となっている。自らの作戦指揮については旅順攻囲戦では半年の月日を要した事、奉天会戦ではロシア軍の退路遮断の任務を完遂出来なかった事、またロシア軍騎兵大集団に攻撃されたときはこれを撃砕する好機であったにも関わらず達成できなかった事を上げて、甚だ遺憾であるとした。乃木は、復命書を読み上げるうち、涙声となった。さらに乃木は、明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ、という趣旨のことを述べたとされる[94]。
乃木に対する世界的賞賛[編集]
『ニーヴァ』誌に掲載された乃木の挿絵
旅順攻囲戦は日露戦争における最激戦であったから、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価され[95]、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置もまた賞賛の対象となり、特に水師営の会見におけるステッセリの処遇については、世界的に評価された[82]。乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。また、子供の名前や発足した会の名称に乃木や乃木が占領した旅順(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発した[96]。加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニア及びイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された[97]。
ミカエルです。
旅順を児玉が、攻略したというのは、
司馬遼太郎の作った物語に過ぎなかった。
機関砲を持つ要塞を、攻略するのは、至難の技だった。
弾も送って来ない大本営と、交錯する命令の元に、実によく、戦った乃木将軍。
坂の上の雲では、陸軍の戦いぶりが、過小評価されている…。
相手は、絶大なるロシア陸軍。
それまで、有色人種が、白人の勝利を、納めた事など、一度も無かったのだ。
そして、武人の名誉を、重んじた乃木将軍…。
韓国と、中国ほど武人の名誉を大切にしない国は無い…。
乃木はこの戦いで正攻法を行いロシアの永久要塞を攻略した。第1回目の攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請に半ば押される形で強襲作戦となり(当時の軍装備、編成で要塞を早期攻略するには犠牲覚悟の強襲法しかなかった)、乃木の指揮について例えば歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べたほどである。乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となった[70]。
乃木は補充のできない要塞を正攻法で自軍の損害を抑えつつ攻撃し相手を消耗させる事で勝利出来る事を確信していたが、戦車も航空機もない時代に機関砲を配備した永久要塞に対する攻撃は極めて困難であった。第3軍は満州軍司令部や大本営に度々砲弾を要求したが、十分な補給がおこなわれる事はついになかった。旅順攻撃を開始した当時、旅順要塞は早期に陥落すると楽観視していた陸軍内部においては、乃木に対する非難が高まり、一時、乃木を第3軍司令官から更迭する案も浮上した。しかし、明治天皇が御前会議において乃木更迭に否定的な見解を示したことから、乃木の続投が決まったといわれている[71]。また大本営は度々第三軍に対して直属の上級司令部である満州軍司令部と異なる指示を出し、混乱させた。特に203高地を攻略の主攻にするかについては第3軍の他にも軍が所属する満州軍の大山巌総司令や児玉源太郎参謀長も反対していた。それでも大本営は海軍側に催促された事もあり、満州軍の指導と反する指示を越権して第3軍にし、乃木達を混乱させた[72]。
乃木に対する批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、乃木邸に向かって大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2,400通も届けられた[73]。
11月30日、第3回総攻撃に参加していた次男・保典が戦死した。これを知った乃木は、「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」と述べたという[74]。長男と次男を相次いで亡くした乃木に日本国民は大変同情し、戦後に「一人息子と泣いてはすまぬ、二人なくした人もある」という俗謡が流行するほどだった[75]。
明治38年(1905年)1月1日、要塞正面が突破され、予備兵力も無くなり抵抗も不可能になった旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ(ステッセルとも表記される)は、乃木に対し、降伏書を送付し、同月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落した[76]。
なお、この戦いに関する異説として旅順に来た児玉源太郎が指揮をとって203高地を攻略したというものがある。この異説は司馬遼太郎の小説が初出で世に広まり、以降の日露戦争関連本でも載せられる程となったが司馬作品で発表される以前はその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述も一切存在しない[77]。203高地は児玉が来る前に1度は陥落するほど弱体化しており再奪還は時間の問題であった。
また、この戦いで繰り広げられた塹壕陣地戦は後の第一次世界大戦の西部戦線を先取りするような戦いとなり、鉄条網で周囲を覆った塹壕陣地を機関銃や連装銃で装備した部隊が守備するといかに突破が困難になるかを世界に知らしめた。他にも、塹壕への砲撃はそれほど相手を消耗させないことや予備兵力を消耗させない限り敵陣全体を突破するのは不可能であることなど、第一次世界大戦でも言われた戦訓が多くあった。しかし西洋列強はこの戦いを「極東の僻地で行われた特殊なケース」として研究せずに対策を怠り、第一次世界大戦で大消耗戦となってしまった[78] 。
水師営の会見[編集]
水師営会見 中央二人が乃木将軍とステッセリ将軍(後列左4人目松平英夫)
旅順要塞を陥落させた後の明治38年(1905年)1月5日、乃木は要塞司令官ステッセリと会見した。この会見は水師営において行われたので、水師営の会見といわれる。会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセリが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう要請した[79]。
これを受けて、乃木は、ステッセリに対し、極めて紳士的に接した。すなわち、通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木はステッセリに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた[80]。また、乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させずに、ステッセリらロシア軍人の武人としての名誉を重んじた[81]。
こうした乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛された[82]。 また、この会見を題材とした唱歌『水師営の会見』が作られ、日本の国定教科書に掲載された[83]。
乃木は、1月13日に旅順要塞に入城し、翌14日、旅順攻囲戦において戦死した将兵の弔いとして招魂祭を挙行し、自ら起草した祭文を涙ながらに奉読した。その姿は、日本語が分からない観戦武官及び従軍記者らをも感動させ、彼らは祭文の意訳を求めた[84]。
奉天会戦[編集]
詳細は「奉天会戦」を参照
乃木率いる第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦にも参加した。第3軍は、西から大きく回り込んでロシア軍の右側背後を突くことを命じられ、猛進した。ロシア軍の総司令官であるアレクセイ・クロパトキンは、第3軍を日本軍の主力であると判断していた。当初は東端の鴨緑江軍を第3軍と誤解して兵力を振り分けていた。旅順での激闘での消耗が回復していない第3軍は進軍開始直後は予定通り進撃していた。しかし西端こそが第3軍である事に気付いたクロパキトンが兵力の移動を行い第3軍迎撃へ投入、激戦となった。
第3軍の進軍如何によって勝敗が決すると考えられていたので、総参謀長・児玉源太郎は、第3軍参謀長・松永正敏に対し、「乃木に猛進を伝えよ」と述べた。児玉に言われるまでもなく進撃を続けていた乃木は激怒し、第3軍の司令部を最前線にまで突出させたが、幕僚の必死の説得により、司令部は元の位置に戻された[85]。
その後も第3軍はロシア軍からの熾烈な攻撃を受け続けたが、進撃を止めなかった。こういった第3軍の奮戦によって、クロパトキンは第3軍の兵力を実際の2倍以上であると誤解し、また、第3軍によって退路を断たれることを憂慮して、日本軍に対して優勢を保っていた東部及び中央部のロシア軍を退却させた。これを機に形勢は徐々に日本軍へと傾き、日本軍は奉天会戦に勝利した[85][86]。
アメリカ人従軍記者スタンレー・ウォッシュバンは、「奉天会戦における日本軍の勝利は、乃木と第3軍によって可能になった」と述べた[87]。
凱旋[編集]
乃木は、日露戦争の休戦を奉天の北方に位置する法庫門において迎えた。この際、参謀の津野田是重に対し、日露講和の行く末について、戦争が長引くことは日本にとってのみ不利であること、賠償金はとれないであろうこと及び樺太すべてを割譲させることは困難であること等を述べている[88]。
明治38年(1905年)12月29日、乃木は法庫門を出発し、帰国の途についた。明治39年(1906年)1月1日から5日間、旅順に滞在して砲台を巡視した後、大連を出航し、同月10日には宇品に、14日は東京・新橋駅に凱旋した[89]。
乃木は、日露戦争以前から国民に知られていたが[90]、「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語した[91]旅順要塞の攻略が極めて困難であったことや、二人の子息を亡くしたことから、乃木の凱旋は他の諸将とは異なる大歓迎となり、新聞も帰国する乃木の一挙手一投足を報じた[92]。乃木を歓迎するムードは高まっていたが、対する乃木は、日本へ帰国する直前、旅順攻囲戦において多数の将兵を戦死させた自責の念から、戦死して骨となって帰国したい、日本へ帰りたくない、守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい、箕でも笠でもかぶって帰りたい、などと述べ、凱旋した後に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断った[93]。
凱旋後、乃木は明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読した。復命書の内容は、第3軍が作戦目的を達成出来たのは天皇の御稜威、上級司令部の作戦指導および友軍の協力によるものとし、また将兵の忠勇義烈を讃え戦没者を悼む内容となっている。自らの作戦指揮については旅順攻囲戦では半年の月日を要した事、奉天会戦ではロシア軍の退路遮断の任務を完遂出来なかった事、またロシア軍騎兵大集団に攻撃されたときはこれを撃砕する好機であったにも関わらず達成できなかった事を上げて、甚だ遺憾であるとした。乃木は、復命書を読み上げるうち、涙声となった。さらに乃木は、明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ、という趣旨のことを述べたとされる[94]。
乃木に対する世界的賞賛[編集]
『ニーヴァ』誌に掲載された乃木の挿絵
旅順攻囲戦は日露戦争における最激戦であったから、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価され[95]、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置もまた賞賛の対象となり、特に水師営の会見におけるステッセリの処遇については、世界的に評価された[82]。乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。また、子供の名前や発足した会の名称に乃木や乃木が占領した旅順(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発した[96]。加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニア及びイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された[97]。
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