『明治天皇は山縣有朋を通じ、乃木に対し”ステッセリが祖国のために力を尽くした事を讃え、武人としての名誉を確保するよう”要請した』


水師営の会見
 旅順要塞を陥落させた後の明治38年1月5日、乃木は要塞司令官ステッセリと水師営で会見した。会見に先立ち、明治天皇は山縣有朋を通じ、乃木に対し”ステッセリが祖国のために力を尽くした事を讃え、武人としての名誉を確保するよう”要請した。これを受けて乃木は、極めて紳士的に接し、通常許されない帯剣をステッセリに許し、共に酒を酌み交わし打ち解けた。更に乃木は従軍記者の再三の要求にもかかわらず、会見写真は1枚しか撮影させずに、ステッセリらロシア軍人の武人としての名誉を重んじた。このような乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて、世界的に報道され賞賛された。乃木は1月13日に旅順要塞に入城し、翌14日、旅順攻略戦において戦死した将兵の弔いとして、招魂祭を挙行し、、自ら起草した祭文を涙ながらに奉読した。その姿は、日本語がわからない観戦武官及び従軍記者らを感動させ、彼らはこぞって祭文の意訳を求めた。




毒ガスを作った兵士も、武器弾薬を作った兵士も、
共に、国を守るために戦った兵士だ、
苦しい戦いを戦い抜いた兵士だ。


ひどい仕事を命じられたスタッフよ、死ぬな…。
好きでした行為じゃないだろ?
君の目の前にいたかつての兵士も同じだ…。




乃木に対する世界的賞賛

 旅順攻略戦は日露戦争における最激戦であったから、

乃木は日露を代表する将軍と評価され、

その武功のみならず、

降伏したロシア兵に対する寛大な処置も賞賛の対象となり、

特に、水師営の会見におけるステッセリの処遇については、
世界的に評価された。


敵国のロシアの「ニーヴァ」誌ですら、
乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。

乃木に対しては、ドイツ・フランス・チリ・ルーマニア・及びイギリスの各王室または政府から各種勲章が授与された。






旅順攻略戦
 乃木が率いる第3軍の編成目的は、旅順要塞の攻略であった。第3軍は6月26日から進軍を開始し、8月7日に第一回目の、10月26日に第二回目の、11月26日に第三回目の総攻撃を行った。また、「白襷隊」と言われる決死隊による突撃を敢行した。乃木はこの戦いで正攻法を行い、ロシアの永久要塞を攻略した。第一回目の攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請に半ば押される形で、強襲作戦となり(当時の軍装備、編成で要塞を早期攻略するには犠牲覚悟の急襲法しか無かった)乃木の指揮について、例えば歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べた程である。乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となった。    
乃木は補充の出来ない要塞を正攻法で、自軍の損害を抑えつつ攻撃し、相手を消耗させる事で勝利出来ることを確信していたが、戦車も航空機もない時代に機関砲を配備した永久要塞に対する攻撃は極めて困難であった。
第3軍は満州軍司令部や大本営に、度々砲弾を要求したが、十分な補給が行われる事はついになかった。旅順攻撃を開始した当時、旅順要塞は早期に陥落すると楽観視していた陸軍内部では、乃木に対する非難が高まり、一次乃木を更迭する案も浮上したが、明治天皇が御前会議で、乃木の更迭に否定多岐な見解を示されたことから、乃木の続投が決まったといわれている。また大本営は、度々第3軍に対して、直属の上級司令部である満州軍司令部と異なる指示を出し、現場を混乱させた。特に203高地を攻略の主攻にするかについては、満州軍の大山司令官や児玉総参謀長も反対していた。それでも大本営は海軍側に催促された事もあり、満州軍の指導と反する指示を越権して第3軍に出し、乃木達を混乱させた。
 明治38年1月1日、要塞正面が突破され、予備兵力も無くなり抵抗も不可能になった、旅順要塞司令官アナートリィー・ステッセリ(ステッセルとも呼ばれる)は、乃木に対し、降伏書を送付し、同月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落した。
なお、この戦いに関する異説として、旅順に来た児玉源太郎が指揮をとって203高地を攻略したというものがある。この異説は司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」が初出で世に広まり、以降日露戦争関連本でも載せられる程となったが、司馬作品で発表される以前はそのような話は出ておらず、一次資料にそれを裏付ける記述も一切存在しない。203高地は児玉がくる前に一度陥落するほど弱体化しており、再奪還は時間の問題であった。
また、旅順で繰り広げられらた塹壕陣地戦は、後の第一次世界大戦の西部戦線でに先駆けての、近代要塞戦であったが、ヨーロッパ列強はこの戦いを「極東の僻地で行われた特殊のケース」と研究せず対策を怠ったため、世界大戦で大消耗戦を行う結果になった。
奉天会戦

 乃木率いる第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦に参加した。ロシア軍総司令官である、アレクセイ・クロパトキンは当初第3軍を日本軍の主力であると判断していて、鴨緑江軍を第3軍と誤解して兵力を振り分けていたが、やがて戦線の西端こそが第3軍と気づくと、兵力を逐次投入し大激戦となった。

第3軍の進撃如何によって勝敗が決すると考えられていたので、総参謀長児玉源太郎は、第3軍参謀長・松永正敏に対し、「乃木に猛進を伝えよ」と述べた。児玉に言われるまでもなく猛進を続けていた乃木は、これに激怒し、第3軍の司令部を最前線にまで突出させたが、幕僚達の必死の説得により、司令部は元の位置に戻された。その後も第3軍はロシア軍から熾烈な攻撃を受け続けたが、進撃を止めなかった。このような第3軍の奮戦によって、黒パトキンは第3軍の兵力を、実際の二倍以上と誤解し、第3軍により退路を断たれる事を憂慮して、日本軍に対して優勢を保っていた、東部及び中央部のロシア軍を退却させた。これにより形成は日本軍に徐々に傾き、奉天会戦に勝利した。


アメリカ人従軍記者、スタンレー・ウオッシュバーンは、

「奉天会戦における日本軍の勝利は、

乃木と第3軍によって可能になった」と述べた。








日清戦争への従軍

 明治25年12月18日、10ヶ月の休職を経て復職し、東京の歩兵第一旅団長となった。明治27年8月1日、日本が清に宣戦布告して日清戦争が始まると、同年10月、大山巌が率いる第2軍の下で出征した。乃木率いる歩兵第一旅団は、9月24日に東京を出発し、広島に集結した後、宇品を出航して、10月24日、清の花園港に上陸した。11月から乃木は、破頭山・金州、産国及び和尚島において戦い、同月24日は旅順要塞をわずか一日で陥落させた。

翌明治28年、乃木は蓋平・太平山、営口および田庄台において戦った。特に蓋平での戦闘では、日本の第一軍(司令官は桂太郎)第3師団を包囲した清国軍を撃破するという武功をあげ、「将軍の右に出る者なし」と言われるほどの評価を受けた。





ブログ 日々これ好日になるといいなと思います。・・・より


もう一つ、続き




英国王室の戴冠式に出席した、乃木将軍と東郷平八郎元帥




乃木夫妻の葬儀は、大正元年9月18日に行われた。葬儀には十数万の民衆が参列した。その様子は「権威の命令なくして、行われたる国民葬」と表現され、また外国人も数多く参列したことから「世界葬」とも表現された。




最期に乃木将軍の知られざる人物像に触れてこのブログを閉じたい

 

乃木希典の人物像




日露戦争における自責の念

 乃木は時間があれば、戦死者の遺族を訪問し「乃木が貴方の子弟を殺したに他ならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、その時乃木が謝罪したものと思ってください」と述べた。

 東郷平八郎・上村彦ノ丞と共に乃木も、長野における戦没講演に招かれた際、勧められても登壇せず、その場に立ったまま「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した者であります」と行って落涙し、それ以上何も言えなくなってしまったこともあった。




戦傷病者へのいたわり

 癈兵院を再三にわたって見舞い、多くの寄付を行った、乃木は、他者から寄贈を受けたものがあると、そのほとんどを、その施設に寄付した。そのため施設の入院者は乃木を強く敬愛し、乃木の訃報を聞いて号泣するものもあり、特に重体の者以外皆、乃木の葬儀に参加した。また、施設内には、乃木の肖像画を飾った遙拝所が儲けられた。

 上腕切断者の為に、自ら設計に参加した乃木式義手を完成させ、自分の年金を担保に制作・配布した。この義手で書いたという負傷兵のお礼を述べる手紙が乃木宛に届き、乃木は大いに喜んだという。




乃木将軍に対する逸話は、これ以外にも多数ある。これを戦争美化、軍国主義への邂逅、などと言う意見もあるだろう。しかし、今まで書いてきた内容をもう一度吟味してもらいたい。乃木将軍の生き様は、司馬遼太郎という一作家の手で”愚将””軍国主義の象徴”と描かれているが、現在の日本人で、ここまで国際的に精神的名部分で(経済的なら別)尊敬された日本人は皆無である。我々はこのような偉大な日本人が存在したことを誇りに思うべきではないだろうか?我々日本人が今一番必要としている事は、日本人としての誇り!日本人としてのアイデンティティである。今こそ我々は、”司馬史観”の呪縛から脱却し、誇るべき祖先の御霊を敬いつつ、厳しい国際社会で生き抜いて行く時が来ている。



以上   日々好日だったらいいのになっていうブログから

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索