司馬史観にあえて苦言を呈する



2012年01月28日(土) 10時48分33秒
テーマ:ブログ


司馬遼太郎という、偉大な作家がいる。彼の書く小説における歴史観は”司馬史観”と称され、一部熱狂的ファンが存在する。代表作は何と言っても坂本龍馬を描いた「龍馬がゆく」だろう。これには、金八先生で、人気が出た武田鉄矢が傾倒している事が巷では有名だろう。司馬氏は、昨年最終章を迎えた、NHKドラマ「坂の上の雲」の作者としても記憶に新しい。「坂の上の雲」の小説を読み、ドラマを観た多くの読者・視聴者が、乃木希典将軍の無能さと児玉源太郎大将の有能さを比較して、旅順攻略戦の戦における、乃木将軍の無能さと参謀責任者であった伊地知参謀の意固地さによる、度重なる作戦失敗を歯がみをしながら読まれた読者また、ドラマを観られた方も多いと思う。しかし司馬遼太郎氏が描いた歴史観が本当に正しいのか、多くの司馬ファンの怒りを買うと思うが、あえて苦言を呈する意味で、西村真悟氏のメルマガを転載させていただく。




歴史の連続性と切断してフィクションを書く司馬氏




西村真悟のメルマガより  平成23年12月25日




 本年我が国は、三月十一日の巨大地震と巨大津波、そして原子力発電所事故の、国難に見舞われた。




 その中で明らかになったのは、我が国の卓越した歴史の連続性だと思う。

即ち、万世一系、百二十五代の天皇を戴く国歌としての一貫性は、日本民族の個性を育んできた何ものにも代え難い価値である。

 その日本民族の個性が、東日本の被災地で顕れ、世界が驚嘆した。(これについては先の阪神淡路大震災の時も同様)青文字は私の私見で著者の西村氏とは関係ありません。




 この我が民族と国家の尊い連続性から観れば、戦後の一時期、つまり現在など、不変の根底の単なる表層の波風にしか過ぎない。赤文字は、私の強調したい部分です。著者の西村信吾氏の意図とは関係ありません!)

 驕れるものも久しからず、勝ったアメリカも、驕る中共も、共に早晩姿を変えるが、我が日本は、変わることなく、万世一系の天皇陛下の統治する日本である限り、無窮である。

  本年もあとわずかになって、益々、国難の中に顕れた日本の姿の尊さについて思う。




 さて、以上のことを再三再四述べた上で、本日の私の行動と、司馬遼太郎という人についての思いを述べておきたい。




 本日は、多分本年最後となる本屋さんに出かけることができた。かねてから注文していた乃木希典と児玉源太郎の人生を描いた「斜陽に立つ」(著者:古川薫・毎日新聞社)を受け取り、戦った元兵士の聞き取りである「太平洋戦争、最後の証言、第二部陸軍玉砕編」(著者:門田隆将・小学館)を購入することが出来た。




 そして、この乃木希典の本と、門田さんの陸軍玉砕編から連想するのが、司馬遼太郎という作家であった。




 司馬遼太郎さんは、乃木希典将軍を愚かな軍司令官、つまり愚将として描き、旅順要塞攻撃に際して、銃剣と刀で夜間出撃して行った三千名の「白襷隊」を乃木将軍による「兵の虐殺」とした。

 そして、なまじっか旅順が陥落したものだから、乃木将軍の「兵の虐殺」が昭和の軍隊に遺伝して、大東亜戦争における各戦地での玉砕になったと、述べている。

 司馬さんによると、乃木将軍は何と愚かな罪作りで、日露戦争より40年後の日本敗戦の原因をつくった男と言うことになる。




 そこで司馬さんが、ここまで、民族の孤高にして寡黙な燻し銀の如き宝と言うべき人物のことを悪し様に言うのだから、はっきり述べておきたい。

 司馬遼太郎は、まことに低劣である、と。

 フイクションならフイクションとして書けば罪は少ない、小説なのだから。

 しかし彼は、新聞記者上がり(下がり、崩れ)で、取材もせずに取材したような事実、ドキュメントを書く。従って、罪は重い。




 旅順が落ちなかったら、我が国はロシアに敗北する。従って、司馬も我々日本人として生まれていない。

 よって旅順陥落は、国家を救う勝利であった。

 世界では、国家を救った軍人を名将と言う。

 従って、乃木希典は名将である。

 当時の世界がそれを認めた。

 即ち乃木希典は名将であると。




 この定義以外に、司馬遼太郎氏は、如何なる定義を用いて乃木将軍を名将でなく、愚将と言うのか。

 白襷隊のように、命令によって兵を死地に赴かせたからか。

馬鹿を言うな。

兵を死地に赴かせる命令を発する者を司令官というのだ。(その命令をくだすことがどんなにつらい事か!)

戦争とはそういうものなのだ。

多分、司馬さんが好きなレーニンも、旅順陥落を絶賛していた。このことを多分、司馬さんを知らなかったのではないか?




 それから、司馬遼太郎氏は、我が国の連続性を意識するよりも、わざと我が国の歴史を切断させて、「坂の上の雲」の明治と「愚劣な軍国主義」の昭和を対比させたものだから、明治だけを描いて昭和は描けなかった。

 司馬遼太郎氏は、自分と友達と同世代の人が生きた昭和を、他国を観るような嫌な視線で、嫌なところだけを強調して貶めた。

 この観点から見れば、司馬さんの「明治という国家」とか「この国のかたち」等の自著の命名は鼻について仕方が無い。




 門脇さんの、「陸軍玉砕編」の最後は、昭和二十年八月十五日以降のソビエト軍との戦いであった、千島列島最北端の「占守島の激闘」を描いている。

 この戦闘は、敗戦後の日本軍が、島に艦砲射撃の後に上陸したソビエト軍を包囲殲滅する寸前まで追い詰めて完全な勝利であった。

 しかし、日本軍は、ソビエト軍を殲滅する前に、自ら兵を納めて彼らの命を助けた。その日本軍がソビエトの捕虜になり、シベリアに送られて、特に過酷な強制労働を強いられたのだ。

 そして、この占守島の激闘を指揮して、勝利せしめた戦車隊の隊長こそ、戦車学校生徒だった、司馬遼太郎さんを教えた教官であった。

 司馬さんが作家ならば、この自分の教官が敢闘して戦死した占守島の戦いを描くべきであった。描かないのは、昭和と軍隊を恨んでいたからであろう。




 とは言え、司馬遼太郎氏は、三島由紀夫氏の自決した翌日の毎日新聞朝刊第一面に、三島氏の死についての論考を載せている。

 これは、今でも通用する冷静で鋭い論考であった。この論考を自決の翌日の朝刊に載せたと言うことは、司馬さんは、自決当日から日の変わる午前零時の間に書いた、つまり、生首が転がっている間に書いた、ということである。

 これは、それまで、ある予感を以て三島氏の作品を読み、三島氏の行動を凝視していたのでなければ書けない内容だった。

 ここで私が、司馬遼太郎氏を低劣だと言いながら、他方、又評価する所以がある。さすがに、新聞記者出身だ。




 とはいえ、司馬遼太郎氏の死後、奥さんが、産経新聞に「司馬さんのこと」という連載をしていたが、その題名といい、自分の亭主のことを「司馬さん」という進歩的仕草といい、似たもの夫婦とはよく言ったもので、鼻について一切読まなかった。




 「太平洋戦争 最後の証言」前三部作を、第二部まで書いた門脇さんは、高齢になられた兵士の聞き取りを続けておられるが、その第一部の前書きで、「年を経るごとに『歴史』になりつつある太平洋戦争(大東亜戦争)について、今ジャーナリズムの戦いが続いている」と書かれている。私は、この門脇さんの作業。「ジャーナリズムの最期の戦い」の成果を期待して待っている。


日々好日になるといいなと思います


乃木希典将軍は本当に”愚将”なのか?

以下Wikipediaからの抜粋です




西南戦争への従軍

 明治10年西南戦争が勃発すると、同年2月19日、乃木は第十四連隊を率いて久留米に入り、同年23日夕刻。植木町(後の熊本市植木町)付近において西郷軍との戦闘に入った。乃木の連隊は主力の出発が遅れた上に、強行軍を重ねていたから、西郷軍との戦闘に入った当時、乃木が直卒していた将兵は200名ほどに過ぎなかった。対する西郷軍は400名ほどだった。乃木は寡兵を持って良く防戦し、3時間ほど持ちこたえたが、午後9時頃退却を始めた。その際に連隊旗を奪われるという事件がおきた。

連隊旗喪失を受けて、乃木は指揮官の山縣に対し、4月17日付けの贖罪書を送り厳罰を求めるも、山縣はこれを不問とした。これに対し乃木は納得せず、何度も自殺を図るが、それを見つけた児玉源太郎は、乃木から軍刀を奪い取り、それを諫めた。その後乃木は、死地を求めるかのように、最前線で、弾丸の下を奔走して部隊を指揮し、重傷を追って野戦病院に入院してもなお脱走して、戦地に赴こうとした。このときの負傷が元となり、左足がやや不自由になる。

 

少将への出世と留学

 西南戦争で、連隊旗を失う屈辱に加えて、萩の乱では実弟を、賊軍として失い、師である、正木文之進を切腹という形で失い精神の均衡を失いつつつある身を放蕩三昧に送っていた乃木は、明治20年政府の命令で、川上操六(坂の上の雲では、陸軍の至宝と言われた天才参謀として描かれる)


と共にドイツ帝国へ留学した。、乃木は、ドイツ軍参謀モルトケから紹介された参謀大尉デュフェーについて「野外要務令」に基づく講義を受けた。次に乃木は、ベルリン近郊の近衛軍に属して、ドイツ陸軍の全貌について学んだ。

帰国後、乃木は実質的に乃木単独で作成した復命書を大山巌に提出した。(形式上は川上・乃木の連名であつたが、川上は帰国後病に伏したので、ほとんど乃木が単独で記述した)復命書は、軍紀の確保と厳正な軍紀を維持するための綱紀粛正・軍人教育の重要性を説き、軍人は徳義を本分とすべきであることや、軍服着用の重要性についても記載されていた。

帰国後の乃木は自らの復命書ろ体現するかのように、あれほど激しかった遊蕩を一切やめ、生活をとことん質素にし(平素は稗を食し、来客時には蕎麦を「ご馳走」と言って振る舞った」そして、いつ如何なる時も乱れなく軍服を着用するようになった。この後乃木は数度休職し下野するがその度那須野で農業に従事した。後にその姿を人々は「農人乃木」と呼んだ。




日清戦争への従軍

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