木下工務店、アサヒビール、プーマがスポンサー。
スケートをするのに、一ヶ月なんと30万円も、必要だったそうです…。
それを、昼も夜も働いて支えたお母さん…。
その母親の電話に出ないのは、果たして人間として正しいだろうか…。
以下は、コピペです。
そりゃあね、弁当屋のアルバイトは、えらくないですよ、
市長さんでも、県知事さんでも、ありゃしません、
企業の社長さんでも、部長さんでもありゃしません…。
彼は岡山・倉敷市で4人兄弟の末っ子として生まれ、父親は大工、母は理容師。築30年を超える家賃3万円の借家暮らし。
4人の子育ては楽なものではなかったが、両親は共働きでやりくりしていたという。
3人の兄たちはそろって少林寺拳法の教室に通っていたが、大輔は格闘技に馴染(なじ)めず、野球やサッカーなどの球技にもまるで興味を示さなかったという。
小学校時代の同級生「優しすぎる性格でした」
小学校の同級生によれば、「優しすぎる性格でしたね。学校ではいじめっ子のターゲットになって、物を隠されたり、しょっちゅう泣いていました」 という。
ひ弱な幼少時代を過ごしていた大輔。しかし転機が訪れる。
小学2年の時に自宅の近くにスケートリンクが完成し、彼はそこで初めてフィギュアスケートと出会ったのだ。
そのリンクで大輔を指導したのが『倉敷フィギュアスケーティングクラブ』の代表でコーチだった佐々木美行(みゆき)さん(56)。
佐々木さんによれば、リンクがオープンしてスケート教室が設けられ、生徒は子供と大人合わせてわずか10人。その第1期生の中にいたのが大輔だったという。
転びながらも、それでも毎日通ってきていたのだという。きっとスケートが彼に合っていたと思ったそう。
当初は才能を特別に感じることはなかったのだが、とにかく素直で練習熱心。
一日中でも氷の上に乗っているのが楽しくてたまらないという笑顔が懐かしかったという。
夢中になれるものを見つけた大輔だったが、フィギュアスケートにはお金がかかった。
衣装、リンク代、遠征費……選手の出費は月30万円を超えることもある。それでも家族は大輔の夢のために身を削ることを惜しまなかった。
大輔にスケートをさせるために必死で支えた父と母
かつて新聞のインタビューで大輔の母はこんなエピソードを明かしている。
大輔がスケートを始めて間もない頃、世界選手権のエキシビションが広島で行われたときのこと。
観戦チケット代は1万円。当時の高橋家にとっては大金だった。
だが、母は無理をして費用を捻出し、大輔を送り出したという。
そして息子は「お母さん、よかった!」と大感動で帰ってきたという。
このとき母は「どんな苦労をしてでもスケートをさせる」と誓ったのだという。
母は昼は理容室で働き、夜は弁当屋でアルバイト。父も仕事を求めて、遠くの工事現場に通っていた。
大会で着る衣装はお母さんが試合のたびに手作り。靴もお父さんがエッジを砥石で研いでいたという。
一家の食費も一日1000円程度に抑えていたが、兄たちも弟のために誰も文句を言わなかった。
世界ジュニア選手権で優勝するまで、競技用シューズは1足だけだった
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