『やっぱり、安定した物量、交通網を得るには、トンネルが、必要だ❗️本州ー四国❗️』青函トンネルは、一兆円❗️
ミカエルです
『青函トンネルとは…』
全長 約50キロ 海底部 約20キロ
つまり、トンネルは、高松ー琴平 間より長いんだぜ❗️
高松ー観音寺 間くらいある❗️
す、すまんね、つい、親戚の所に行く距離に、置き換えて^_^
ここは、個人の日記でしかないもんでな^_^
建設開始1961年(昭和36年)3月23日
開通1988年(昭和63年)3月13日
軌道長53.85km(海底部23.30km)
かつて青森駅と函館駅を結ぶ鉄道連絡船として、日本国有鉄道(国鉄)により青函航路(青函連絡船)が運航されていた。しかし、1950年代には、朝鮮戦争によるものと見られる浮流機雷がしばしば津軽海峡に流入、また1954年(昭和29年)9月26日、台風接近下に誤った気象判断によって出航し、暴風雨の中、函館港外で遭難した洞爺丸他4隻の事故(洞爺丸事故)など、航路の安全が脅かされる事態が相次いで発生した。
これらを受けて、太平洋戦争前からあった本州と北海道をトンネルで結ぶ構想が一気に具体化し、船舶輸送の代替手段として、長期間の工期と巨額の工費を費やして建設されることとなった。
青森県東津軽郡三厩村(現在の外ヶ浜町)と北海道松前郡福島町を結ぶ西ルート、青森県下北郡大間町と北海道亀田郡戸井町(現在の函館市)を結ぶ東ルートが検討され、当初は距離が短い東ルートが有力視されたが、東ルートは西ルートよりも水深が深い上、海底の地質調査で掘削に適さない部分が多いと判定されたため、西ルートでの建設と決定した。なお、もし東ルートに決定していれば、かつて青函連絡船代替航路として建設されていた未成線(大間線と戸井線)の建設が再開され、開通していたとも言われている。
当初は在来線規格での設計であったが、整備新幹線計画に合わせて新幹線規格に変更され建設された。整備新幹線計画が凍結された後、暫定的に在来線として開業することになったものの、軌間や架線電圧の違いを除けば、保安装置(ATC-L型)も含めて新幹線規格を踏襲しており、のちに考案されるスーパー特急方式の原型となった。
トンネルは在来工法(一部TBM工法・新オーストリアトンネル工法)により建設された。トンネル本体の建設費は計画段階で5,384億円であったが、実際には7,455億円を要している[10]。取り付け線を含めた海峡線としての建設費は計画段階で6,890億円、実際には9,000億円に上る。
しかし、完成時には北海道新幹線の建設が凍結になっており、また関東以西と北海道が鉄道と青函航路で結ばれていた着工当時と打って変わり関東から北海道への旅客輸送は既に航空機が9割を占めており、さらに完成後も大量の湧水を汲み上げる必要があるなど維持コストも大きいことから、巨額な投資といえども埋没費用とみなし放棄した方が経済的であるとされた。そのため「昭和三大馬鹿査定」発言において言及され、「無用の長物」、「泥沼トンネル」などと揶揄されたこともあった。
トンネルの有効活用としては「道路用に転用すべきだ」、「キノコの栽培をすべきだ」、「石油の貯蔵庫にすべきだ」などのアイデアも報じられたが、結局は在来線で暫定使用を行う事になった。なおこの時、「青函トンネルカートレイン構想」としてカートレインの運行を行うことも定められていたが、実現には至っていない。
しかし、開通後は北海道と本州の貨物輸送に重要な役割を果たしており、一日に21往復(定期列車。臨時列車も含めると上下合わせて約50本)もの貨物列車が設定されている。天候に影響されない安定した安全輸送が可能となったことの効果は大きい。特に北海道の基幹産業である農産物の輸送量が飛躍的に増加したとされる。また首都圏で印刷された雑誌類の北海道での発売日のタイムラグが短縮されるなど、JR北海道にとっては赤字事業であるものの外部効果は高いといえる。対照的に、旅客は航空輸送の高度化・価格破壊などから減少が進んでいる。2007年(平成19年)9月1日には青森・函館間を1時間45分で結ぶ高速船ナッチャンReraが、2008年(平成20年)5月2日にはナッチャンWorldが就航し、青函トンネル旅客輸送における新たな競合相手となっていたが、これらは2008年(平成20年)11月1日で運航休止[注 7]となった。このような状況ではあるが、今後は北海道新幹線開業による輸送量増加が期待される。
当初はTBM(トンネルボーリングマシン)を使用して掘削していけば、ほぼ計画通りの工期で完成すると考えていたが、実際には軟弱な地層に進むにつれ多発した異常出水や、機械の自重で坑道の下へ沈み込み前進も後退もできずに、やむなくTBMの前方まで迂回して坑道を掘って前から押し出すなどあまり役に立たず、早々にTBMでの掘削を諦めた。本坑に先駆けて先進導坑を掘り進み、先の地質などを調査しながら本坑が後を追うという形式で掘り進むことになる。
海底にさしかかるに従い次第に地質が軟弱になり、出水も増えてきた。そのため青函トンネルで培われた技術が、セメントミルクを超高圧で岩盤へ注入し、セメントが固まった後そこを掘っていく方法である。つまり坑道の太さ以上にセメントで自ら硬い岩盤をあらかじめ作り、そこを掘り進む理屈である。それでもなお大量の出水を防ぐ事ができず、坑道の途中で進む事を断念し坑口を塞いだうえでその坑道を避けて掘った箇所が先進導坑に数カ所存在する。
掘削が終わり、鉄道が開通した後も湧水(塩水)が常に出続けている。そのため竜飛側と吉岡側のそれぞれ先進導坑最下部にポンプが備えられており(竜飛側はさらにもう1か所)、常時ポンプで湧水を汲み出すことでトンネルが維持されている。
北海道新幹線編集
2005年(平成17年)に北海道新幹線の新青森 - 新函館北斗間が着工され、青函トンネルについては貨物・夜行列車なども引き続き通れるように三線軌条とし、上下線の間に遮風壁を設ける事、トンネル両側の津軽今別駅[注 10]と知内信号場[20][注 11]に待避施設を建設する事になっている。2007年(平成19年)には保安装置の動作確認などの試験目的で、上下線6kmの三線軌条化工事が行われた。また、これらの工事のために吉岡海底駅は休止されていた。
また、速度が大きく異なる貨物列車と新幹線を同時に走らせることによるダイヤへの負荷などを解消するべく、狭軌用の貨物列車を列車ごと標準軌用列車に乗せ、新幹線用レール上を高速で走行させるトレイン・オン・トレイン技術がJR北海道によって研究されている。
これとは別に、当初の予定通り青森側・北海道側にそれぞれターミナルを建設してカートレインを運行させようという構想もあるが、実現の目処は立っていない。
2014年(平成26年)3月15日に北海道新幹線の開業工事に伴い、2つの海底駅(竜飛海底駅・吉岡海底駅)が廃止された。
走行車両編集
50系客車に設置されていた列車位置表示装置
青函トンネルは海底の長大トンネルであるため、走行する車両には下記の装備が要求されている。
列車保安装置としてATC-L型を搭載すること。
運輸省(現在の国土交通省)が省令で定めた防災基準を満たす構造であること。
なお明示された条件ではないが、本トンネルは海底を通ることから湿度が常に100%であるため、これに耐えうる構造であることも重要である。
火災事故防止のため、トンネルを通行する営業用列車が電車または電気機関車牽引の客車・貨車のみに制限されており、内燃機関を用いる車両(気動車・ディーゼル機関車)は救援目的のディーゼル機関車を除き、当線内は自走・牽引は出来ない。さらに青函トンネルを通る冷凍コンテナは、熱感知機の反応で列車が足止めされないよう、機関車の運転席からの遠隔操作によりコンプレッサーの動力となるディーゼルエンジンを切るための専用回路を搭載したタイプに限られている[注 12]。
本州と北海道間で車両を輸送する際は、内燃機関を停止した上で基本的に電気機関車の牽引により甲種輸送される[注 13]。
なお、1988年(昭和63年)10月にはオリエント急行の車両が本トンネルを通行している[21]が、オリエント急行に使用される車両は内装に木材を使用している[21]上、食堂車では石炭レンジを使用しており[21]、火災対策上通行が認められない車両であった[21]。しかし、この時には各車両に車内放送装置と火災報知器を設置した上[21]、防火専任の保安要員を乗務させるという条件[21]で特別に通行が認められている[21]。
北海道新幹線開業後には、青函トンネルを含む海峡線の架線電圧が新幹線にあわせて25,000V (50Hz)に昇圧し、保安装置もDS-ATCに変更される予定である。現状では、蟹田 − 木古内間には駅間につき一本しか列車が入れないよう設定されているが、貨物列車を減らさずに新幹線列車を走行させるためには続行運転を行わなければならず、デッドセクションによって対応することはできない[要出典]。
ミカエルです
『青函トンネルとは…』
全長 約50キロ 海底部 約20キロ
つまり、トンネルは、高松ー琴平 間より長いんだぜ❗️
高松ー観音寺 間くらいある❗️
す、すまんね、つい、親戚の所に行く距離に、置き換えて^_^
ここは、個人の日記でしかないもんでな^_^
建設開始1961年(昭和36年)3月23日
開通1988年(昭和63年)3月13日
軌道長53.85km(海底部23.30km)
かつて青森駅と函館駅を結ぶ鉄道連絡船として、日本国有鉄道(国鉄)により青函航路(青函連絡船)が運航されていた。しかし、1950年代には、朝鮮戦争によるものと見られる浮流機雷がしばしば津軽海峡に流入、また1954年(昭和29年)9月26日、台風接近下に誤った気象判断によって出航し、暴風雨の中、函館港外で遭難した洞爺丸他4隻の事故(洞爺丸事故)など、航路の安全が脅かされる事態が相次いで発生した。
これらを受けて、太平洋戦争前からあった本州と北海道をトンネルで結ぶ構想が一気に具体化し、船舶輸送の代替手段として、長期間の工期と巨額の工費を費やして建設されることとなった。
青森県東津軽郡三厩村(現在の外ヶ浜町)と北海道松前郡福島町を結ぶ西ルート、青森県下北郡大間町と北海道亀田郡戸井町(現在の函館市)を結ぶ東ルートが検討され、当初は距離が短い東ルートが有力視されたが、東ルートは西ルートよりも水深が深い上、海底の地質調査で掘削に適さない部分が多いと判定されたため、西ルートでの建設と決定した。なお、もし東ルートに決定していれば、かつて青函連絡船代替航路として建設されていた未成線(大間線と戸井線)の建設が再開され、開通していたとも言われている。
当初は在来線規格での設計であったが、整備新幹線計画に合わせて新幹線規格に変更され建設された。整備新幹線計画が凍結された後、暫定的に在来線として開業することになったものの、軌間や架線電圧の違いを除けば、保安装置(ATC-L型)も含めて新幹線規格を踏襲しており、のちに考案されるスーパー特急方式の原型となった。
トンネルは在来工法(一部TBM工法・新オーストリアトンネル工法)により建設された。トンネル本体の建設費は計画段階で5,384億円であったが、実際には7,455億円を要している[10]。取り付け線を含めた海峡線としての建設費は計画段階で6,890億円、実際には9,000億円に上る。
しかし、完成時には北海道新幹線の建設が凍結になっており、また関東以西と北海道が鉄道と青函航路で結ばれていた着工当時と打って変わり関東から北海道への旅客輸送は既に航空機が9割を占めており、さらに完成後も大量の湧水を汲み上げる必要があるなど維持コストも大きいことから、巨額な投資といえども埋没費用とみなし放棄した方が経済的であるとされた。そのため「昭和三大馬鹿査定」発言において言及され、「無用の長物」、「泥沼トンネル」などと揶揄されたこともあった。
トンネルの有効活用としては「道路用に転用すべきだ」、「キノコの栽培をすべきだ」、「石油の貯蔵庫にすべきだ」などのアイデアも報じられたが、結局は在来線で暫定使用を行う事になった。なおこの時、「青函トンネルカートレイン構想」としてカートレインの運行を行うことも定められていたが、実現には至っていない。
しかし、開通後は北海道と本州の貨物輸送に重要な役割を果たしており、一日に21往復(定期列車。臨時列車も含めると上下合わせて約50本)もの貨物列車が設定されている。天候に影響されない安定した安全輸送が可能となったことの効果は大きい。特に北海道の基幹産業である農産物の輸送量が飛躍的に増加したとされる。また首都圏で印刷された雑誌類の北海道での発売日のタイムラグが短縮されるなど、JR北海道にとっては赤字事業であるものの外部効果は高いといえる。対照的に、旅客は航空輸送の高度化・価格破壊などから減少が進んでいる。2007年(平成19年)9月1日には青森・函館間を1時間45分で結ぶ高速船ナッチャンReraが、2008年(平成20年)5月2日にはナッチャンWorldが就航し、青函トンネル旅客輸送における新たな競合相手となっていたが、これらは2008年(平成20年)11月1日で運航休止[注 7]となった。このような状況ではあるが、今後は北海道新幹線開業による輸送量増加が期待される。
当初はTBM(トンネルボーリングマシン)を使用して掘削していけば、ほぼ計画通りの工期で完成すると考えていたが、実際には軟弱な地層に進むにつれ多発した異常出水や、機械の自重で坑道の下へ沈み込み前進も後退もできずに、やむなくTBMの前方まで迂回して坑道を掘って前から押し出すなどあまり役に立たず、早々にTBMでの掘削を諦めた。本坑に先駆けて先進導坑を掘り進み、先の地質などを調査しながら本坑が後を追うという形式で掘り進むことになる。
海底にさしかかるに従い次第に地質が軟弱になり、出水も増えてきた。そのため青函トンネルで培われた技術が、セメントミルクを超高圧で岩盤へ注入し、セメントが固まった後そこを掘っていく方法である。つまり坑道の太さ以上にセメントで自ら硬い岩盤をあらかじめ作り、そこを掘り進む理屈である。それでもなお大量の出水を防ぐ事ができず、坑道の途中で進む事を断念し坑口を塞いだうえでその坑道を避けて掘った箇所が先進導坑に数カ所存在する。
掘削が終わり、鉄道が開通した後も湧水(塩水)が常に出続けている。そのため竜飛側と吉岡側のそれぞれ先進導坑最下部にポンプが備えられており(竜飛側はさらにもう1か所)、常時ポンプで湧水を汲み出すことでトンネルが維持されている。
北海道新幹線編集
2005年(平成17年)に北海道新幹線の新青森 - 新函館北斗間が着工され、青函トンネルについては貨物・夜行列車なども引き続き通れるように三線軌条とし、上下線の間に遮風壁を設ける事、トンネル両側の津軽今別駅[注 10]と知内信号場[20][注 11]に待避施設を建設する事になっている。2007年(平成19年)には保安装置の動作確認などの試験目的で、上下線6kmの三線軌条化工事が行われた。また、これらの工事のために吉岡海底駅は休止されていた。
また、速度が大きく異なる貨物列車と新幹線を同時に走らせることによるダイヤへの負荷などを解消するべく、狭軌用の貨物列車を列車ごと標準軌用列車に乗せ、新幹線用レール上を高速で走行させるトレイン・オン・トレイン技術がJR北海道によって研究されている。
これとは別に、当初の予定通り青森側・北海道側にそれぞれターミナルを建設してカートレインを運行させようという構想もあるが、実現の目処は立っていない。
2014年(平成26年)3月15日に北海道新幹線の開業工事に伴い、2つの海底駅(竜飛海底駅・吉岡海底駅)が廃止された。
走行車両編集
50系客車に設置されていた列車位置表示装置
青函トンネルは海底の長大トンネルであるため、走行する車両には下記の装備が要求されている。
列車保安装置としてATC-L型を搭載すること。
運輸省(現在の国土交通省)が省令で定めた防災基準を満たす構造であること。
なお明示された条件ではないが、本トンネルは海底を通ることから湿度が常に100%であるため、これに耐えうる構造であることも重要である。
火災事故防止のため、トンネルを通行する営業用列車が電車または電気機関車牽引の客車・貨車のみに制限されており、内燃機関を用いる車両(気動車・ディーゼル機関車)は救援目的のディーゼル機関車を除き、当線内は自走・牽引は出来ない。さらに青函トンネルを通る冷凍コンテナは、熱感知機の反応で列車が足止めされないよう、機関車の運転席からの遠隔操作によりコンプレッサーの動力となるディーゼルエンジンを切るための専用回路を搭載したタイプに限られている[注 12]。
本州と北海道間で車両を輸送する際は、内燃機関を停止した上で基本的に電気機関車の牽引により甲種輸送される[注 13]。
なお、1988年(昭和63年)10月にはオリエント急行の車両が本トンネルを通行している[21]が、オリエント急行に使用される車両は内装に木材を使用している[21]上、食堂車では石炭レンジを使用しており[21]、火災対策上通行が認められない車両であった[21]。しかし、この時には各車両に車内放送装置と火災報知器を設置した上[21]、防火専任の保安要員を乗務させるという条件[21]で特別に通行が認められている[21]。
北海道新幹線開業後には、青函トンネルを含む海峡線の架線電圧が新幹線にあわせて25,000V (50Hz)に昇圧し、保安装置もDS-ATCに変更される予定である。現状では、蟹田 − 木古内間には駅間につき一本しか列車が入れないよう設定されているが、貨物列車を減らさずに新幹線列車を走行させるためには続行運転を行わなければならず、デッドセクションによって対応することはできない[要出典]。
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