『中国共産党によるチベット人大虐殺は、一度や、二度じゃ、終わってない・・・今もつづいてるんだ☆』
お忍びで来て下さった椎名誠さんの事ウィキペデイアで、調べてみたら、
奥様は、チベットについて書いてる作家の方でした・・・
これが、どんなに覚悟を決めた行為であるか、
分かりますか?
今でも、セブンイヤーズ・オブ・チベットに出演したリチャード・ギアと、
もう一人のイケメン、ブラッド・ピット・・・は、
いまだに、中国への入国は禁止、彼等の出演している映画も禁止なんです・・・
つまり、ひょっとしたら、椎名誠さんの著書だって、中国では、売れないかもしれないのです・・。
それは、まさに、生活を捨つる覚悟で書かれた物なのです・・・。
日本で書いてるから安全か、どうか・・・
それは、書いてみないと分からない訳で、
そういう先人のチャレンジがあってこそ、
アタシ達は、チベットについても、自由に語れる訳です・・・
殺された息子の、墓参り・・・墓参りですよ!
その墓参りに、行かないように共産党軍の見張りがつくのです、
息子を、失った事を、おそらく世間に言えない環境なのです・・・
このような狂おしいまでの環境が、隣の中国大陸では、続いています・・・
1957年から1958年にかけて、バタン(巴塘)、維西、徳欽、中甸らによる第2次蜂起に対して中国軍は1958末に「平定」に成功。5,500人を「殲滅」(虐殺)した[47]。
青海省における虐殺
1958年3月から8月にかけて、甘粛から青海にかけての42万平方キロにかけてチベット人130,000人が「反乱」を行った。中国軍は、うち110,000人を殲滅(つまり、虐殺)して平定した[48]。また、青海省におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民50,000人を逮捕した。この数字は青海省チベット・モンゴル人遊牧民総人口の10%にあたる。逮捕者の84%にあたる45,000人が誤認逮捕であった。拘留中に23,260人が死亡(正しく殺害の意味か…)、誤って殺害されたものが173人。宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡[49]。
1959年には、動乱がガンデンポタンの管轄領域(西蔵)にも波及し、同年3月17日、生命の危機を感じたダライ・ラマ14世はインドへ亡命し、チベット亡命政府を立てた。
1959年3月10日に勃発したラサ蜂起では三日間で10,000人-15,000人のラサ市民が死亡。
中央チベットの虐殺
1959年3月から1962年3月までに中央チベットにおいて、死亡・負傷・捕虜を含めて93,000人を殲滅、武器35,500丁、砲70問を鹵獲した[50](中央チベットの大虐殺)。
アムド地方ゴロク地区(中国の区分で青海省果洛州)では1956年に130,000人あった人口が1963年におよそ60,000人にまで減ったとされる。
『そして、今、共産党の意思に反する事を、幹部は、言っても大丈夫なのか・・・
反論しても、大丈夫なのか・・・
それは、日本にいるアタシには、すまんが、分からない・・・』
お忍びで来て下さった椎名誠さんの事ウィキペデイアで、調べてみたら、
奥様は、チベットについて書いてる作家の方でした・・・
これが、どんなに覚悟を決めた行為であるか、
分かりますか?
今でも、セブンイヤーズ・オブ・チベットに出演したリチャード・ギアと、
もう一人のイケメン、ブラッド・ピット・・・は、
いまだに、中国への入国は禁止、彼等の出演している映画も禁止なんです・・・
つまり、ひょっとしたら、椎名誠さんの著書だって、中国では、売れないかもしれないのです・・。
それは、まさに、生活を捨つる覚悟で書かれた物なのです・・・。
日本で書いてるから安全か、どうか・・・
それは、書いてみないと分からない訳で、
そういう先人のチャレンジがあってこそ、
アタシ達は、チベットについても、自由に語れる訳です・・・
殺された息子の、墓参り・・・墓参りですよ!
その墓参りに、行かないように共産党軍の見張りがつくのです、
息子を、失った事を、おそらく世間に言えない環境なのです・・・
このような狂おしいまでの環境が、隣の中国大陸では、続いています・・・
1957年から1958年にかけて、バタン(巴塘)、維西、徳欽、中甸らによる第2次蜂起に対して中国軍は1958末に「平定」に成功。5,500人を「殲滅」(虐殺)した[47]。
青海省における虐殺
1958年3月から8月にかけて、甘粛から青海にかけての42万平方キロにかけてチベット人130,000人が「反乱」を行った。中国軍は、うち110,000人を殲滅(つまり、虐殺)して平定した[48]。また、青海省におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民50,000人を逮捕した。この数字は青海省チベット・モンゴル人遊牧民総人口の10%にあたる。逮捕者の84%にあたる45,000人が誤認逮捕であった。拘留中に23,260人が死亡(正しく殺害の意味か…)、誤って殺害されたものが173人。宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡[49]。
1959年には、動乱がガンデンポタンの管轄領域(西蔵)にも波及し、同年3月17日、生命の危機を感じたダライ・ラマ14世はインドへ亡命し、チベット亡命政府を立てた。
1959年3月10日に勃発したラサ蜂起では三日間で10,000人-15,000人のラサ市民が死亡。
中央チベットの虐殺
1959年3月から1962年3月までに中央チベットにおいて、死亡・負傷・捕虜を含めて93,000人を殲滅、武器35,500丁、砲70問を鹵獲した[50](中央チベットの大虐殺)。
アムド地方ゴロク地区(中国の区分で青海省果洛州)では1956年に130,000人あった人口が1963年におよそ60,000人にまで減ったとされる。
『そして、今、共産党の意思に反する事を、幹部は、言っても大丈夫なのか・・・
反論しても、大丈夫なのか・・・
それは、日本にいるアタシには、すまんが、分からない・・・』
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