1957年から1958年にかけて、バタン(巴塘)、維西、徳欽、中甸らによる第2次蜂起に対して中国軍は1958末に「平定」に成功。5,500人を「殲滅」(虐殺)した[47]。 青海省における虐殺 1958年3月から8月にかけて、甘粛から青海にかけての42万平方キロにかけてチベット人130,000人が「反乱」を行った。中国軍は、うち110,000人を殲滅(つまり、虐殺)して平定した[48]。また、青海省におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民50,000人を逮捕した。この数字は青海省チベット・モンゴル人遊牧民総人口の10%にあたる。逮捕者の84%にあたる45,000人が誤認逮捕であった。拘留中に23,260人が死亡(正しく殺害の意味か…)、誤って殺害されたものが173人。宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡[49]。

1959年には、動乱がガンデンポタンの管轄領域(西蔵)にも波及し、同年3月17日、生命の危機を感じたダライ・ラマ14世はインドへ亡命し、チベット亡命政府を立てた。

1959年3月10日に勃発したラサ蜂起では三日間で10,000人-15,000人のラサ市民が死亡。 中央チベットの虐殺 1959年3月から1962年3月までに中央チベットにおいて、死亡・負傷・捕虜を含めて93,000人を殲滅、武器35,500丁、砲70問を鹵獲した[50](中央チベットの大虐殺)。

アムド地方ゴロク地区(中国の区分で青海省果洛州)では1956年に130,000人あった人口が1963年におよそ60,000人にまで減ったとされる。

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