「真実の日本」より、抜粋





ミカエルです



コピーね、


日本共産党の武装革命路線

朝鮮戦争中(1950年~1953年)の1951年(昭和26年)、中国共産党の指導により、日本共産党は第5回全国協議会で武装闘争(暴力革命)方針を決定した。

1951年(昭和26年)10月16から17日にかけて第5回全国協議会(五全協)が開かれ、「51年綱領」が無修正で採択され、軍事方針も発表された。武装綱領と呼ばれた「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」では、日本民族の独立を第一義とした「民族解放民主革命」を理想とし、「軍事組織の最も初歩的なまた基本的なもの」として「中核自衛隊」が唱えられた。

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中核自衛隊(ちゅうかくじえいたい)

1951年(昭和26年)に、日本共産党がいわゆる五〇年問題で中央委員会の機能が停止していた時期に、臨時中央指導部なる所感派の影響下で、特に第5回全国協議会における「51年綱領」によって明記された日本共産党の武装革命を実現するための軍事組織の名称。軍事組織はY組織またはYと称された。

軍事組織の最も初歩的なまた基本的なもの。中核自衛隊は、工場や農村で国民が武器をとって自らを守り、敵を攻撃する一切の準備と行動を組織する戦闘的分子の軍事組織であり、日本における民兵である。

これらの軍事方針が実行に移されるようになるのは1952年(昭和27年)に入ってからで、大小無数の武装衝突事件が起こった。デモ隊は盛んに火炎瓶を投げて武装警官と渡り合った。中核自衛隊は、陽動目的で作られた組織とされる。

由井誓は「この軍事方針が現実の火炎ビン闘争として実行に移されるのは、52年1月の白鳥事件から8月の横川事件までです。わずか半年余りだった。やがて中核自衛隊は各地で孤立する。多くの隊員が食うや食わずで、栄養失調から結核になったりノイローゼになったりする状態では、相当数の隊員が自然消滅したのは当然ですね。」と述べている。

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