『「戦争反対を唱えるだけで平和がまもれましょうか…、戦争の好きな人間などいません、けれど、外国から無理難題言われたら、やらなきゃいけない事もあるんです…」』
オーストラリアは、反日な人間ばかりじゃなかった、
軍人さんは、知っていてくれた…
だから、オーストラリアで、さぬきうどんの小麦も、作ってくれたんですね…
コピペして来ました…
2012-05-22 04:26:59
「それで、日本が護れましょうか」
テーマ:心をゆさぶる話
いいね!(5)コメント(24)
$子どもへ伝える大切なもの
【千人針】
女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作る祈念の手法、および出来上がったお守りのこと。武運長久、つまり兵士の戦場での幸運を祈る民間信仰である。(wikiより)
大東亜戦争中、女性は戦地に赴く男性に【千人針】を送った。
虎が「千里を行き、千里を帰る」という言い伝えにあやかったのです。
また四銭(死線)を越える「五銭硬貨」や
九銭(苦戦)を越える「十銭硬貨」なども一緒に縫い付けられました。
「無事に帰ってきてほしい」
その一心で女性達は、糸を縫い付けたのです。
それも沢山の人の祈願が入った方が良いという事で、街いく人に女性が千人針のお願いをする光景が見られました。
$子どもへ伝える大切なもの
$子どもへ伝える大切なもの
$子どもへ伝える大切なもの
自分の子どもが戦地に行く事で、悲しまない母親はいないでしょう。
自分の子どもが戦死する事を、悲しまない母親はいないでしょう。
10か月もの間、お腹を痛め、この世に元気に生まれてきた子どもを守りたいと思う母親の感情には時代なんか関係なく、その感情は万国共通の母親が持つものとも言えます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
松尾まつ枝さんも、息子に千人針を送った一人でした。
まつ枝さんの御子息、松尾敬宇(けいう)は、
1917年7月21日熊本県に生まれます。
昭和10年4月、松尾敬宇の念願であり当時の少年達の憧れだあった、江田島の海軍兵学校に合格します。
その当時、まつ枝さんは一句詠みます。
名句なし 祈る心や 福寿草
$子どもへ伝える大切なもの
まつ枝さんの母としての喜びと不安が見え隠れする。
昭和13年、敬宇は海軍兵学校を卒業し、
特殊潜航艇の搭乗員となります。
昭和16年12月8日、日本は真珠湾攻撃を開始し、
日米開戦が始まります。
松尾敬宇はこの作戦に予備指揮官として参加します。
この時、華やかな日本軍の戦績の中、特殊潜航艇は5隻出撃しますが帰還できたのは、なんと0隻でした。
敬宇が搭乗する特殊潜航艇とは、のちの人間魚雷「回転」とは違い、母艦に帰還することが前提とされていました。しかし、真珠湾攻撃では1隻も帰還する事はありませんでした。
それほど難しい技術と、危険が伴う任務だったのです。
そして昭和17年3月、日本海軍はこの特殊潜航艇によるシドニーへの第二次特別攻撃を決定します。そして松尾敬宇は志願していたその攻撃隊の一人に選ばれます。
出陣前の3月に松尾敬宇は、両親や兄弟から出陣の祝い受けます。
真珠湾攻撃で特殊潜航艇が未帰還したことから、松尾敬宇は家族との最後の夜と覚悟していました。
松尾敬宇にとっては最後の夜、母に甘えます。
「久しぶりに母さんと一緒に寝ていいかな・・・。」
まつ枝さんは、息子が重要な作戦に赴くことを充分に理解していました。
愛する息子、もう二度と会う事はできない息子・・・
まつ枝さんは、色んな想いを抱きながら息子を抱いて寝ます。
$子どもへ伝える大切なもの
昭和17年5月31日、松尾敬宇は大尉としてシドニー湾攻撃に出撃します。
しかし、松尾艇は魚雷発射管の故障で攻撃できません。
「体当たりで本懐を遂げる」
$子どもへ伝える大切なもの
松尾艇は敵巡洋艦に体当たりを仕掛けますが、オーストラリア軍の波状攻撃に遭い浸水。
松尾敬宇は部下の都竹正雄と一緒に拳銃で自決を図ります。
昭和17年6月1日 松尾敬宇 自決 享年24歳。
昭和17年6月9日
オーストラリアのシドニー近郊で海軍葬が挙行します。
弔われたのは特殊潜航艇で沈没し、死亡した日本人4人でした。
$子どもへ伝える大切なもの
海軍葬で礼を尽くしたグールド少将は言います。
「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」
そしてオーストラリア戦争記念館の正面に、特殊潜行艇が安置されます。
松尾敬宇が自決した時、母まつ枝さんの千人針を腹に巻いていました。
その血で染まった千人針も展示されたのです。
敬宇の死を知ったまつ枝さんは一句詠みます。
君がため 散れと育てし花なれど 嵐のあとの庭さびしけれ
まつ枝
昭和40年7月、オーストラリア戦争記念館の館長マックグレースは、日本のまつ枝さんの元を訪れます。
「どうですか、お母様も一度シドニーにご子息に会いに来られませんか?」
その時、まつ枝さんは息子との最後の夜を思い出します。
我が子を抱いて寝た、出陣前の夜の事を・・・
「もう一度でいいから、我が子を抱いて寝てみたい、敬宇の匂いが移りし千人針を抱いて・・・」
昭和43年、まつ枝さんは息子に会いにシドニーに飛び立ちます。
戦死してから約26年、まつ枝さんは83歳になっていました。
戦争記念館を訪れ特殊潜行艇に案内されます。
まつ枝さんは沢山の報道陣の中、静かに艇に近づきます。
恐る恐る艇に近づき、ぶるぶる震える手で優しく艇に触れます。
外側を一周し、ある場所で足を止めます。
そこは息子が座っていたであろう箇所でした。
まつ枝さんは、そこをしみじみ見つめます。
その後、まつ枝さんは館長に椅子に座らされます。
そして、息子が最後まで巻いていたあの【千人針】を渡されます。
その白木の額に入った千人針は血で染まっています。
報道陣がカメラのシャッターを切ります。
まつ枝さんは恐る恐るその額を握り、
小刻みに震え、椅子の中で大きく揺れます。
千人針の上に、まつ枝さんの涙がポタポタ落ちます。
館長の手にしがみつきながら、息子の思い出が甦り泣き崩れます。
カメラマンのシャッター音も自然と消えます。
静まり返ったその一室で、まつ枝さんと息子は再会したのです。
「母は心からあなたを褒めてあげますよ、よくやってくれました。」
ある記者が
「お母さんは最愛の子供を失ってさぞ淋しいでしょう」と聞きます。
「私の子供は大きな孝行をしてくれました。すこしも淋しいとは思いません。心から満足しています」とまつ枝さんは答えます。
そんな、まつ枝さんの態度にオーストラリア国民は感動し、
また敵であったオーストラリア海軍も敬意を表します。
$子どもへ伝える大切なもの
この話は日本では黙殺されます。
あるテレビ局がまつ枝さんに取材に来た時に、事前打ち合わせで
「お母さん、取材の途中で何を言われてもよろしいが、最後は戦争は嫌だ、という言葉で結んでください」と頼みます。
まつ枝さんはきっぱりこう言います。
「戦争が好きな者はいません。しかし外国から無理難題をいわれれば、やらなければならない場合もあります」
「戦争がいやだと いうだけで、日本が護れましょうか」
当時の日本の母親がそうであった様に、まつ枝さんは強く、
そして最後まで誇り高かったのです。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
冒頭でも述べましたが、
息子を失って悲しくない母親はいません。
また、まつ枝さんが仰った様に
戦争が好きな者はいないでしょう。
戦後日本は、戦争の悲惨さばかりを誇張して子供たちを教育してきました。
戦争の記憶を風化させてはならない
二度と戦争は起こしてならない
それは当然ですが、戦争体験を受け継いでいく事、日本が再び戦争に巻き込まれないようにする事は真の意味で為されていないように思います。
戦争反対を唱えるだけで、平和が守れましょうか
憲法9条を護持する事で、理不尽な暴力から愛する者を守れましょうか
生死に葛藤し、涙し、血を流し全力で生きてきた
まつ枝さんから見れば
外国の軍隊に守られながら「戦争反対」を唱えるマスコミや
日本の風潮に嫌気がさしたのかもしれません。
「先人に学ぶ」
「戦争を風化させてはいけない」
その真の意味を考える時は今です。
私たち現代を生きる者はその責任を果たす時がきているように思います。
「未来への責任を真に果たそう!」
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文中敬称略
参考
国際派日本人養成講座
平和への誓約
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オーストラリアは、反日な人間ばかりじゃなかった、
軍人さんは、知っていてくれた…
だから、オーストラリアで、さぬきうどんの小麦も、作ってくれたんですね…
コピペして来ました…
2012-05-22 04:26:59
「それで、日本が護れましょうか」
テーマ:心をゆさぶる話
いいね!(5)コメント(24)
$子どもへ伝える大切なもの
【千人針】
女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作る祈念の手法、および出来上がったお守りのこと。武運長久、つまり兵士の戦場での幸運を祈る民間信仰である。(wikiより)
大東亜戦争中、女性は戦地に赴く男性に【千人針】を送った。
虎が「千里を行き、千里を帰る」という言い伝えにあやかったのです。
また四銭(死線)を越える「五銭硬貨」や
九銭(苦戦)を越える「十銭硬貨」なども一緒に縫い付けられました。
「無事に帰ってきてほしい」
その一心で女性達は、糸を縫い付けたのです。
それも沢山の人の祈願が入った方が良いという事で、街いく人に女性が千人針のお願いをする光景が見られました。
$子どもへ伝える大切なもの
$子どもへ伝える大切なもの
$子どもへ伝える大切なもの
自分の子どもが戦地に行く事で、悲しまない母親はいないでしょう。
自分の子どもが戦死する事を、悲しまない母親はいないでしょう。
10か月もの間、お腹を痛め、この世に元気に生まれてきた子どもを守りたいと思う母親の感情には時代なんか関係なく、その感情は万国共通の母親が持つものとも言えます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
松尾まつ枝さんも、息子に千人針を送った一人でした。
まつ枝さんの御子息、松尾敬宇(けいう)は、
1917年7月21日熊本県に生まれます。
昭和10年4月、松尾敬宇の念願であり当時の少年達の憧れだあった、江田島の海軍兵学校に合格します。
その当時、まつ枝さんは一句詠みます。
名句なし 祈る心や 福寿草
$子どもへ伝える大切なもの
まつ枝さんの母としての喜びと不安が見え隠れする。
昭和13年、敬宇は海軍兵学校を卒業し、
特殊潜航艇の搭乗員となります。
昭和16年12月8日、日本は真珠湾攻撃を開始し、
日米開戦が始まります。
松尾敬宇はこの作戦に予備指揮官として参加します。
この時、華やかな日本軍の戦績の中、特殊潜航艇は5隻出撃しますが帰還できたのは、なんと0隻でした。
敬宇が搭乗する特殊潜航艇とは、のちの人間魚雷「回転」とは違い、母艦に帰還することが前提とされていました。しかし、真珠湾攻撃では1隻も帰還する事はありませんでした。
それほど難しい技術と、危険が伴う任務だったのです。
そして昭和17年3月、日本海軍はこの特殊潜航艇によるシドニーへの第二次特別攻撃を決定します。そして松尾敬宇は志願していたその攻撃隊の一人に選ばれます。
出陣前の3月に松尾敬宇は、両親や兄弟から出陣の祝い受けます。
真珠湾攻撃で特殊潜航艇が未帰還したことから、松尾敬宇は家族との最後の夜と覚悟していました。
松尾敬宇にとっては最後の夜、母に甘えます。
「久しぶりに母さんと一緒に寝ていいかな・・・。」
まつ枝さんは、息子が重要な作戦に赴くことを充分に理解していました。
愛する息子、もう二度と会う事はできない息子・・・
まつ枝さんは、色んな想いを抱きながら息子を抱いて寝ます。
$子どもへ伝える大切なもの
昭和17年5月31日、松尾敬宇は大尉としてシドニー湾攻撃に出撃します。
しかし、松尾艇は魚雷発射管の故障で攻撃できません。
「体当たりで本懐を遂げる」
$子どもへ伝える大切なもの
松尾艇は敵巡洋艦に体当たりを仕掛けますが、オーストラリア軍の波状攻撃に遭い浸水。
松尾敬宇は部下の都竹正雄と一緒に拳銃で自決を図ります。
昭和17年6月1日 松尾敬宇 自決 享年24歳。
昭和17年6月9日
オーストラリアのシドニー近郊で海軍葬が挙行します。
弔われたのは特殊潜航艇で沈没し、死亡した日本人4人でした。
$子どもへ伝える大切なもの
海軍葬で礼を尽くしたグールド少将は言います。
「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」
そしてオーストラリア戦争記念館の正面に、特殊潜行艇が安置されます。
松尾敬宇が自決した時、母まつ枝さんの千人針を腹に巻いていました。
その血で染まった千人針も展示されたのです。
敬宇の死を知ったまつ枝さんは一句詠みます。
君がため 散れと育てし花なれど 嵐のあとの庭さびしけれ
まつ枝
昭和40年7月、オーストラリア戦争記念館の館長マックグレースは、日本のまつ枝さんの元を訪れます。
「どうですか、お母様も一度シドニーにご子息に会いに来られませんか?」
その時、まつ枝さんは息子との最後の夜を思い出します。
我が子を抱いて寝た、出陣前の夜の事を・・・
「もう一度でいいから、我が子を抱いて寝てみたい、敬宇の匂いが移りし千人針を抱いて・・・」
昭和43年、まつ枝さんは息子に会いにシドニーに飛び立ちます。
戦死してから約26年、まつ枝さんは83歳になっていました。
戦争記念館を訪れ特殊潜行艇に案内されます。
まつ枝さんは沢山の報道陣の中、静かに艇に近づきます。
恐る恐る艇に近づき、ぶるぶる震える手で優しく艇に触れます。
外側を一周し、ある場所で足を止めます。
そこは息子が座っていたであろう箇所でした。
まつ枝さんは、そこをしみじみ見つめます。
その後、まつ枝さんは館長に椅子に座らされます。
そして、息子が最後まで巻いていたあの【千人針】を渡されます。
その白木の額に入った千人針は血で染まっています。
報道陣がカメラのシャッターを切ります。
まつ枝さんは恐る恐るその額を握り、
小刻みに震え、椅子の中で大きく揺れます。
千人針の上に、まつ枝さんの涙がポタポタ落ちます。
館長の手にしがみつきながら、息子の思い出が甦り泣き崩れます。
カメラマンのシャッター音も自然と消えます。
静まり返ったその一室で、まつ枝さんと息子は再会したのです。
「母は心からあなたを褒めてあげますよ、よくやってくれました。」
ある記者が
「お母さんは最愛の子供を失ってさぞ淋しいでしょう」と聞きます。
「私の子供は大きな孝行をしてくれました。すこしも淋しいとは思いません。心から満足しています」とまつ枝さんは答えます。
そんな、まつ枝さんの態度にオーストラリア国民は感動し、
また敵であったオーストラリア海軍も敬意を表します。
$子どもへ伝える大切なもの
この話は日本では黙殺されます。
あるテレビ局がまつ枝さんに取材に来た時に、事前打ち合わせで
「お母さん、取材の途中で何を言われてもよろしいが、最後は戦争は嫌だ、という言葉で結んでください」と頼みます。
まつ枝さんはきっぱりこう言います。
「戦争が好きな者はいません。しかし外国から無理難題をいわれれば、やらなければならない場合もあります」
「戦争がいやだと いうだけで、日本が護れましょうか」
当時の日本の母親がそうであった様に、まつ枝さんは強く、
そして最後まで誇り高かったのです。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
冒頭でも述べましたが、
息子を失って悲しくない母親はいません。
また、まつ枝さんが仰った様に
戦争が好きな者はいないでしょう。
戦後日本は、戦争の悲惨さばかりを誇張して子供たちを教育してきました。
戦争の記憶を風化させてはならない
二度と戦争は起こしてならない
それは当然ですが、戦争体験を受け継いでいく事、日本が再び戦争に巻き込まれないようにする事は真の意味で為されていないように思います。
戦争反対を唱えるだけで、平和が守れましょうか
憲法9条を護持する事で、理不尽な暴力から愛する者を守れましょうか
生死に葛藤し、涙し、血を流し全力で生きてきた
まつ枝さんから見れば
外国の軍隊に守られながら「戦争反対」を唱えるマスコミや
日本の風潮に嫌気がさしたのかもしれません。
「先人に学ぶ」
「戦争を風化させてはいけない」
その真の意味を考える時は今です。
私たち現代を生きる者はその責任を果たす時がきているように思います。
「未来への責任を真に果たそう!」
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