■「コミュニティ再生」と「貧困支援」
「子ども食堂]創設の動きはとどまることを知らず、先日もこのようなイベントが滋賀で開催されたという(「子ども食堂は居場所」 全国交流会、滋賀で初開催)。

たいへんよろこばしい。子ども食堂に関しては、僕も当欄でいろいろ批評しているが、基本的には大賛成の取り組みだ。

ただ、主催者側のほうに子ども食堂に対する意味付けが曖昧なことが気になり、その2大要素である「コミュニティ再生」と「貧困支援」のどちらにそれぞれの子ども食堂は力点を置いているのか程度は示してほしい。

以前も書いたとおり(貧困者は食べものを受けとらない~「子ども食堂」と貧困支援)、子ども食堂にはこの2大要素が含まれており、湯浅誠さん風に言うとそれは「共生食堂」と「ケアつき食堂」のふたつになる(「こども食堂」の混乱、誤解、戸惑いを整理し、今後の展望を開く)。

おもしろいことに現在の子ども食堂の多くは、「コミュニティ再生」のほうに力点を置く主催者が多いように僕には思えるが、社会的ニーズとしては貧困支援のほうが大きいように思える。

新しいコミュニティをつくりたい、コミュニティを再生したいと願い子ども食堂を始めたにも関わらず、社会的ニーズとしては貧困支援、さらに具体的に言うと「虐待発見」機関として期待されていることは皮肉だ。

これは、僕の法人もその動きを担う、大坂や横浜で展開している「高校生居場所カフェ」に課せられたテーマでもある。高校内に展開する居場所カフェには、コミュニティの提示と貧困支援(虐待発見)の2大テーマがあり(加えて、下流層への「文化」の提供もある)、僕も含む主催者としては最初はコミュニティ(サードプレイス)提案が中心だったが、やってみるとそこには、貧困支援(食料提供)やそのコアとしての虐待発見が大きかった(「18才の父」は逃げる~貧困と虐待の連鎖をどこで切るか)。

■「保護者たち」をどうターゲティングしていくか
「コミュニティ再生」と「貧困支援」の2大要素を明確化させることに加えて、これからの子ども食堂的アウトリーチ・リソースの使命としては、貧困支援の中核である「保護者たち」をどうターゲティングしていくかというテーマがある。

現在の、主としてNPOや社会福祉法人が行なう貧困支援は、「食事支援」と「学習支援」に分かれると思う。これに加えて、さらに踏み込んだところでは、児童養護施設にいる子どもたちに対してレクリェーション支援を行なう等もあるだろう。

貧困支援=虐待支援ではなく、虐待に関しては児童相談所を中心とした専門機関のネットワークが「一応」はある。

けれども、発見機能が整ったことと実際の虐待数が増加していることが絡み合い、現実の児童虐待数は毎年増加し続ける。

不登校・ひきこもり問題が一向に減らないことと同じような意味で、ポイントはここでも、「予防」だ。不登校も虐待も、「支援」に関しては担当機関はそれなりにがんばっていると僕は思う。もちろん完ぺきはムリだが、専門家たちがそれぞれの時間を割いて担当ケースの問題を解決すべく日夜がんばっている姿を僕は知っている。

そして、それぞれ個別のケースにおいて、もちろん完ぺきはムリだとしても、それぞれのペースでポジティブな方向に移行するケースをたくさん僕は見ている。

いわば、「不登校」も「虐待」も、現場の支援者たちは一生懸命動いており、それなりの支援効果を出していると僕は思うのだ。

それでも虐待支援や不登校支援が終わることがないのは、問題の「コア」になかなか接近できないということがあると思う。

貧困問題であれば、それはズバリ、貧困の「保護者たち」だ。

■パチンコが好きな貧困保護者
パチンコが好きな貧困保護者は珍しくない。その子どもたちもやがてはパチンコ好きになっていく姿を見ている支援者も少なくないと思う。その保護者たちは別に「夫婦」というわけでもなく、シングル親同士のカップルだったり、どちらかがシングル親でどちらかが貧困独身おとなだったりする。そのシングル親たちは30代なかばから後半で、仮に17才で出産し現在子どもが高校2年生であれば、その母親はまだ34才だ。

それぞれ事情があるから、バチンコに行くそうしたシングル親たちを僕は否定しない。いや、ドストエフスキーやドゥルーズ的には、そうした「欲望」で動く生命体こそが、「人間」そのものであり、ドスト好きでリゾーム主義者の僕としては、パチンコ・アディクションは人間としてひとつの「完成された姿」でもある。

それはダメダメ人間の典型ではあるものの、欲望に忠実という点で僕は尊敬してしまう。

だが、ここに「子ども」が絡むと話が変わってくる。パチンコ・アディクションの親の子どもは、やがては同じ依存症になるのかもしれないが、現在のところは(高校生であっても)ピュアなものである。

子どもたちは、けなげに親を信じている。逆に言うと、「人間」を信じており、それはいじわるな見方をすると、社会的弱者としての子どもがとらざるをえない「生存戦略」のひとつでもあ。

乳幼児が大人の顔色を見て大人の真似をし生き残るように、ハイティーンであってもその「子どもの生存戦略」は継続している。パチンに行く親や保護者を全面的に否定することはできない存在、それが彼ら親たちにしがみつく子どもたちだ。

■子ども食堂的「文化」を親は忌み嫌う
パチンコ・アディクションの親たちは、僕の偏見かも知れないが、子ども食堂には近寄らない。子ども食堂的「文化」を、そうした保護者たちは忌み嫌う。

そして皮肉なことに、そうしたパチンコ・アディクションの家族こそが、「貧困家族」のコア、言い換えると貧困支援のコア対象だと僕は思うのだ。おそらく、そのコアにまだ到達しきれていない子ども食堂の取り込みは、貧困支援としては足りない。

逆に、「コミュニティ再生」としては子ども食堂は大きな可能性をもっている。だから、貧困コア層へのアプローチできる、別のソフトを我々は開発する必要があると思う。子ども食堂にすべてを委ねるのは過酷だ。★

※Yahoo!ニュースからの転載ー

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