(17)米軍の日本兵に対する残虐行為、捕虜虐待
1945年4月7日、沖縄への海上特攻に赴いた戦艦大和を初め巡洋艦矢矧など2隻、駆逐艦3隻がアメリカ軍の空襲を受けて沈没した。
「現場の海面で浮遊物に捕まり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、空母を飛び立ったアメリカ軍戦闘機の群れが、執拗に来襲して情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した。」(矢矧艦長・原為一の証言)
この状況をあざ笑うかのように、アメリカ軍機は何時間もわたって、無抵抗の漂流者に対して執拗な機関銃掃射を加え続けた。同様な残虐行為はニューギニア近海でも行われた。1943年3月3日に起きたビスマルク海海戦(空襲)の結果、陸軍の兵士を乗せた輸送船8隻と駆逐艦4隻が敵機の攻撃により沈められた。この時、沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物に捕まり漂流中の1000名の兵士たちに対して、アメリカとオーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射を行い、機関銃の玉を打ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、映画撮影のカメラマンマンまで乗せて、何度も弾の補給に往復しては、攻撃を続けた。その殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが後年オーストラリアのテレビ局が放映し、国民の大きなショックを与えた。「我々は、フェアーな戦をしていたと思っていたのに・・・・」と戦後聞かされていたこととは全く違うので驚いたのである。ちなみに、ハーグ陸戦条約第23条では、兵器を捨てた自衛手段を持たない者に対する攻撃を禁止していた。→完全に違反していたことが実写フィルムで明らかになったのである。
アメリカ海兵隊兵士による蛮行は悍ましい限りである。
①ルーズベルトの息子で、海兵隊大尉のジェームズ・ルーズベルトも加わったカールソン襲撃隊は、戦死した日本兵の死体を切り刻み、男根と睾丸とを日本兵の口中に詰め込んだ。シャーマン・グリンバーグが、20年後にカールソン隊員の一人のその時の模様を、テレビ番組の中で詳細に語らせている。その隊員は戦友たちの蛮行を写真に撮っていた。
②マキン島へ救援に赴いた谷浦中尉は、戦場で妙なことに気付いた。仰向けになった屍体が15~16体あり、しかも、すべて下腹部を露出しいている。死後1週間経っていたために原型は完全に崩れていて、顔の穴と言う穴はすべて蛆で真白である。どうしてこんな恰好をしているのだろうと思い、不思議の思っていたが、戦後50年経って、意外な事実を知り愕然としたという。それは、マキン襲撃の際に行われた海兵隊の蛮行を物語るものであり、翻訳された出版物を読んだからである。→アメリカ海兵隊は、キリスト教徒であるが、日本人を人間と見做していなかったということである。
③上坂冬子著「硫黄島いまだ玉砕せず」によれば、硫黄島の洞窟内から戦後米兵により持ち去られた日本兵の頭蓋骨は1000個以上にもなるという。彼らは、それでロウソク立て、灰皿、ペン皿を作り、ロサンゼルスの骨董店で1個25ドルで売られていたというのである。
リンドバーグが見た光景は「第2次世界大戦日記」として出版された。彼は、船上で見た光景に激しいショックを受けた。アメリカ兵が日本兵に対して抱く、露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩である。太平洋地域の連合軍の軍人の多くは、日本人に対する人種差別、蔑視から、自分たちと同じ人間とは考えず、人間以下の動物としか見ていなかった。1944年6月21日の日記には、日本人捕虜にたばこをやり、気が緩んだところを後ろから押さえて、のどを「真一文字にかき切った」と言う行為を、日本兵捕虜殺害方法の一例として教えてくれた、ある将兵との会話が記されている。
リンドバーグは残虐行為に対して異議を述べたという。しかし、嘲笑と憐れみをもって軽くあしらわれた。1944年6月26日の日記には、降伏し、捕らえられた2千数百人と言う日本兵捕虜のうち、捕虜収容施設に引き渡されたのは、わずか100人か200人に過ぎなかった。残りの者達は殺害されたが、事故に遭ったと捏造の報告がなされた。1944年7月13日の日記には、「我々の兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようとする兵士を射殺することを何とも思っていない。彼らはジャップに対して、動物以下の関心しか示さない。こうした行為が大目に見られているのだ」と記されている。1944年8月30日の日記には、捕虜になった日本兵を一列に並べ、尋問に英語で答えられる者だけを残し、後はすべて殺させた海軍士官のことが出てくる。後ろ手に縛られた日本人捕虜たちを、輸送機に乗せて収容施設のある地域に輸送する際、彼らを飛行中に突き落とす行為が行われたという。そして、報告書には、捕虜全員が自分から飛び降りたと記録されている。マッカーサー指揮下の第41師団は、「捕虜を取らないl」ことで有名だった。つまり、武器を捨て、両手を挙げて降伏しようとする日本兵や、既に降伏した日本兵を殺すので有名だった。第41師団のことを「屠殺者」と呼んでいた。戦後、ある米陸軍大尉が公表した記事には、「第41師団、捕虜を取らず」と言う見出しが付け加えられた。この師団が例外的に日本人を捕虜にしたのは、軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。
以上コピペでした
でもね、今のアメリカ兵士は、そんな事ないよ、
教養があればだけどね^ ^
戦後70年、最前線に立ってくれた…
殉職したアメリカ兵士と、自衛隊の方に、黙祷、
身体を張ってアタシ達を守って下さって本当にありがとう
彼等の御両親様にも敬礼
1945年4月7日、沖縄への海上特攻に赴いた戦艦大和を初め巡洋艦矢矧など2隻、駆逐艦3隻がアメリカ軍の空襲を受けて沈没した。
「現場の海面で浮遊物に捕まり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、空母を飛び立ったアメリカ軍戦闘機の群れが、執拗に来襲して情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した。」(矢矧艦長・原為一の証言)
この状況をあざ笑うかのように、アメリカ軍機は何時間もわたって、無抵抗の漂流者に対して執拗な機関銃掃射を加え続けた。同様な残虐行為はニューギニア近海でも行われた。1943年3月3日に起きたビスマルク海海戦(空襲)の結果、陸軍の兵士を乗せた輸送船8隻と駆逐艦4隻が敵機の攻撃により沈められた。この時、沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物に捕まり漂流中の1000名の兵士たちに対して、アメリカとオーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射を行い、機関銃の玉を打ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、映画撮影のカメラマンマンまで乗せて、何度も弾の補給に往復しては、攻撃を続けた。その殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが後年オーストラリアのテレビ局が放映し、国民の大きなショックを与えた。「我々は、フェアーな戦をしていたと思っていたのに・・・・」と戦後聞かされていたこととは全く違うので驚いたのである。ちなみに、ハーグ陸戦条約第23条では、兵器を捨てた自衛手段を持たない者に対する攻撃を禁止していた。→完全に違反していたことが実写フィルムで明らかになったのである。
アメリカ海兵隊兵士による蛮行は悍ましい限りである。
①ルーズベルトの息子で、海兵隊大尉のジェームズ・ルーズベルトも加わったカールソン襲撃隊は、戦死した日本兵の死体を切り刻み、男根と睾丸とを日本兵の口中に詰め込んだ。シャーマン・グリンバーグが、20年後にカールソン隊員の一人のその時の模様を、テレビ番組の中で詳細に語らせている。その隊員は戦友たちの蛮行を写真に撮っていた。
②マキン島へ救援に赴いた谷浦中尉は、戦場で妙なことに気付いた。仰向けになった屍体が15~16体あり、しかも、すべて下腹部を露出しいている。死後1週間経っていたために原型は完全に崩れていて、顔の穴と言う穴はすべて蛆で真白である。どうしてこんな恰好をしているのだろうと思い、不思議の思っていたが、戦後50年経って、意外な事実を知り愕然としたという。それは、マキン襲撃の際に行われた海兵隊の蛮行を物語るものであり、翻訳された出版物を読んだからである。→アメリカ海兵隊は、キリスト教徒であるが、日本人を人間と見做していなかったということである。
③上坂冬子著「硫黄島いまだ玉砕せず」によれば、硫黄島の洞窟内から戦後米兵により持ち去られた日本兵の頭蓋骨は1000個以上にもなるという。彼らは、それでロウソク立て、灰皿、ペン皿を作り、ロサンゼルスの骨董店で1個25ドルで売られていたというのである。
リンドバーグが見た光景は「第2次世界大戦日記」として出版された。彼は、船上で見た光景に激しいショックを受けた。アメリカ兵が日本兵に対して抱く、露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩である。太平洋地域の連合軍の軍人の多くは、日本人に対する人種差別、蔑視から、自分たちと同じ人間とは考えず、人間以下の動物としか見ていなかった。1944年6月21日の日記には、日本人捕虜にたばこをやり、気が緩んだところを後ろから押さえて、のどを「真一文字にかき切った」と言う行為を、日本兵捕虜殺害方法の一例として教えてくれた、ある将兵との会話が記されている。
リンドバーグは残虐行為に対して異議を述べたという。しかし、嘲笑と憐れみをもって軽くあしらわれた。1944年6月26日の日記には、降伏し、捕らえられた2千数百人と言う日本兵捕虜のうち、捕虜収容施設に引き渡されたのは、わずか100人か200人に過ぎなかった。残りの者達は殺害されたが、事故に遭ったと捏造の報告がなされた。1944年7月13日の日記には、「我々の兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようとする兵士を射殺することを何とも思っていない。彼らはジャップに対して、動物以下の関心しか示さない。こうした行為が大目に見られているのだ」と記されている。1944年8月30日の日記には、捕虜になった日本兵を一列に並べ、尋問に英語で答えられる者だけを残し、後はすべて殺させた海軍士官のことが出てくる。後ろ手に縛られた日本人捕虜たちを、輸送機に乗せて収容施設のある地域に輸送する際、彼らを飛行中に突き落とす行為が行われたという。そして、報告書には、捕虜全員が自分から飛び降りたと記録されている。マッカーサー指揮下の第41師団は、「捕虜を取らないl」ことで有名だった。つまり、武器を捨て、両手を挙げて降伏しようとする日本兵や、既に降伏した日本兵を殺すので有名だった。第41師団のことを「屠殺者」と呼んでいた。戦後、ある米陸軍大尉が公表した記事には、「第41師団、捕虜を取らず」と言う見出しが付け加えられた。この師団が例外的に日本人を捕虜にしたのは、軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。
以上コピペでした
でもね、今のアメリカ兵士は、そんな事ないよ、
教養があればだけどね^ ^
戦後70年、最前線に立ってくれた…
殉職したアメリカ兵士と、自衛隊の方に、黙祷、
身体を張ってアタシ達を守って下さって本当にありがとう
彼等の御両親様にも敬礼
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