ワールドカップで、もう一人韓国が自慢そうにかかげていた人物が、りしゅんしん李舜臣

りしゅんしん 李舜臣

補給船だった日本の船を大破した。
その後は、日本軍の船は武装する契機となる。
その後、朝鮮水軍は、日本軍によって撤退さされる…
釜山は、日本にとって安全な補給基地となる。


文禄の役



1592年4月12日、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、慶尚道水軍は壊滅したが、李舜臣と李億祺は全羅道水軍を温存して、初めは元均(慶尚右水使)の救援要請を拒否した[1]。 5月になって釜山西方の日本水軍支配域に突如進入し、巨済島東岸に停泊していた藤堂高虎と堀内氏善らの中規模の日本船団を襲撃。帰途も遭遇した日本船を二度に渡って攻撃して、戦果をあげてすばやく撤収した[1]。

詳細は「玉浦海戦」を参照
攻勢主力を釜山から漢城のラインを軸に、平壌・咸鏡道などに展開していた日本軍は、釜山西方の朝鮮南岸で李舜臣の日本船攻撃が活発になると、7月になって脇坂安治(動員定数1500人[2][3][4])、九鬼嘉隆(動員定数1500人[2][3][4])、加藤嘉明(動員定数750人[2][3][4])を各方面から招集し、海上戦闘用の水軍を編成して李舜臣に対抗する事とした。

しかし李舜臣は、囮を使って潮流の激しい海峡に単独行動中の脇坂隊(動員定数1500人)を誘き寄せて、閑山島海戦で撃破した。続いて、脇坂の援護のために安骨浦まで進出して停泊していた加藤・九鬼水軍を襲撃し、戦果を挙げた。この2つの海戦の結果、当初専ら輸送用だった日本水軍の船にも大鉄砲が備付けられ、日本軍は勢力範囲の要所に城砦(倭城や鉄炮塚と呼ばれる砲台)を築いて大筒や大鉄砲を備えて、水陸併進して活動するようになった。この方針転換は有効に機能し、以降の李舜臣による日本側の泊地への攻撃は、釜山浦攻撃、熊川攻撃など、朝鮮水軍は被害を多く出すばかりで成果が上がらなくなり、朝鮮水軍の出撃回数は激減した。 特に釜山浦は、文禄の役の開戦直後の日本軍による占領以来、日本の肥前名護屋から壱岐・対馬を経て釜山に至るルートが日本軍の海上交通路になっており、補給物資は一旦釜山に荷揚げされた後、陸路内陸に輸送されていた。云わば釜山は日本軍にとり補給連絡上の根本となる拠点であった。 朝鮮水軍の李舜臣は「釜山は賊(日本軍)の根本なり。進んで之を覆せば、賊(日本軍)は必ず據(拠)を失う。[5]」として、朝鮮水軍の総力をあげ釜山奪回を目指したが、日本軍に撃退され、朝鮮水軍は撤退した。李舜臣が釜山前洋に現れたのはこの時が最初で最後となった。 これにより釜山は日本軍にとって安泰な場所となり、戦争の終結まで補給連絡上の根本拠点として機能し続けることになる。



韓国には、もっと自慢する事があるやろ、

うまいこと、周りの国をだまくらかして、成長してる事

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